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新編相模国風土記稿
二十二足柄下郡
図説 本郡は国の西辺にあるお以て、北条氏分国の頃、国中お三分して、東中西の三郡に闔称せし時、足柄上下の二郡は、専ら西郡と唱へしこと、北条役帳、及び当時の古文書等に見えたり、古図の今伝ふるものなければ、古の沿革は知べからず、されど郡の東の方中村郷の地、〈中村原以下八村属す〉古へ淘綾郡に属せしなり、和名抄郷名の条に、中村郷お以て彼郡内に係たり、是其証左とするにたれり、〈◯中略〉 足柄下郡は、国の西南堺にあり、〈◯中略〉郡東は総て平夷の地にして、郡の中央より以西は、山巒重畳し、村落お結べるも数山の踵止、若くは峡間に在り、されば闔郡の広袤計りがたし、大抵東より西へ長く広七里許、〈東限羽根尾村辺より、西方箱根宿豆相の国界に至る里程なり、〉南北袤り、東辺は才に一里次第に広く、中央は三里余、西辺豆相の国界に至ては、五里余に至るべし、其四至東は淘綾郡に辺し、南は海浜に至り、北はすべて足柄上郡に隣り、西は伊豆国加茂君沢二郡に堺ふ、但し北辺に偏しては、少しく駿河国駿東郡係れり、地形東より西へ次第に高く、最高頂は箱根の諸岳に至れり、水田は陸田に比すれば頗る多し、〈水田の段別千五百八十九町余、陸田の段別千三百十六町余、〉土性は多く赤黒の両種にして、砂礫錯れる地も頗る多し、又真土野土糯米土(へなつち)の地も少しくあり、農業の外、山村は采薪、海浜は漁釣お専とし、生産お資く、固より富饒の戸口乏し、闔郡の村数、正保の改に八十一、〈数内某村の内某村と題するもの四村〉元禄の改に三お増し八十四、今又八お増し、都て九十二村となれり、本郡の石高、正保の改に二万三千二百七十五石九斗七升二合、元禄に至て二万五千九百四石四斗三升四合四勺となり、前に増加すること二千六百二十八石四斗六升二合四勺、後又三千二百二十三石三斗七升六合二勺お増加し、今は二万九千百二十七石八斗一升六勺に至る、其余持添新田と号するもの、五十五石七斗一升九合、〈後世墾避の地にして、小田原宿の商人持添とす、〉寺領三十五石三斗余、〈御朱印地の高なり〉寺社除地七百八石余、〈但段別のみにて高に入ざる撮爾たる除地は、此数に入れず、〉あり、