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新編相模国風土記稿
三十九淘綾郡
図説 本郡、往昔は今と異にて、最広かりしと見え、倭名抄載る所、本郡の郷名に、中村、〈今足柄上下両郡に跨がれり〉幡多、〈今大住郡の属〉金目〈同上〉等あり、今皆他郡に隷せり、是其証とすべし、又同書に載する、大住郡の郷名高来は、今本郡中、高麗寺村の古名なりとする時は、彼郡中の地も、又本郡に併入すと雲んか、但此事詳ならず、〈委しくは、高麗寺村の条に弁ず、〉小田原北条氏割拠の頃、国中お三分して闔称せし時、当郡及び愛甲大住の三郡は、中郡と唱ふ、又中郡お大小に二分して唱へし頃、本郡は小中郡と称し、大住郡は大中郡と唱ふ、〈天正中、寺社に賜ひし御朱印にも、しか見えたり、〉古今の際、疆域沿革の事、古伝なければ強て知に由なし、〈◯中略〉 淘綾郡は、国の南方海辺にあり、〈◯中略〉郡名旧くは余綾と書し、余呂岐と唱ふ、〈◯中略〉郡名おしか唱へしこと、上りたる世には聞えず、下りて享禄年間の物、〈山西村等覚院薬師像、享禄五年の背銘〉に、始て動木郡と記せるお見る、今淘綾の文字お宛つることは、最近世の所為なる事、論すべからず、〈◯中略〉郡中、南は総て海に瀕して平坦なり、北は山お負ひ、西へ漸々高し、闔郡の広袤、東西へ長く、二里二十町余に至り、〈東方、大磯宿、及び高麗寺村より、西方、川勾村迄の里程なり、〉南北は狭く、平均大抵一里許もあるべし、其四至、東より北へ廻りて、大住郡に辺し、又足柄上郡の地も僅に係れり、西は足柄下郡に堺ひ、南は都て海に添り、水田少く、〈二百五十八町八段四畝二十七歩〉陸田多し、〈六百四町四段七畝十一歩四分五厘〉土性は多く真土、赤土の二種にて、海辺に近きは、砂礫錯れり、用水には井口川の下流お引て、耕嗇する村四村、〈中里、一色、二宮、国府新宿〉又大住郡より沃ぐ、五箇村組合堰の余水お灌漑する村二村、〈山下、万田、〉其余の諸村は、天水及び山間の涌泉等お用いる、農間の余資、山寄の村は、男は薪お採り、筵お織り、女は糸お操り布お織る、海辺の諸村は、専漁釣おなし、駅路に連住する家は便宜に依て、或は旅客お止宿せしめ、或は是が為に酒食諸品お粥ぐもあり、されど富饒の戸口乏し、村数、正保の改に、十九、元禄の改に、二お増加し、〈大磯加宿小磯村、同所新田お二村として数に入、〉一お減じて〈塩海村お二宮村に併入す〉凡て二十、今は又一お増し、〈高麗寺村〉二お減ず、〈加宿東小磯、同所新田お併せ、共に本宿に隷す、〉故に又十九村となれり、本郡の高、正保の改に、七千五百三十七石九斗七升五合、元禄に至りて、七千八百三十石四斗二升五合一杓、前に増加すること、二百九十二石四斗五升一杓、後又十二石六斗六升六杓六撮お増加して、今高七千八百四十三石八升五合七杓六撮に至れり、此余寺社領、二百六十七石一斗、寺社除地、二十八石四斗余、