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新編相模国風土記稿
四十二大住郡
図説 当郡の図、正保四年改定の官本お旧しとすれば、往古の沿革は知るべからず、されど倭名抄に載る、淘綾郡郷名の内、金目、幡多等は、今本郡に属し、当郡の郷名、中島の遺名、高座郡に存するあり、〈今村名となる、蓋其地相模川に辺すれば、洪水の時、水流変遷して、彼郡に属せしならん〉又郡中五分一村は、足柄上、淘綾の二里に孕まり、全く郡の地域お離れたり、是等お以て想ふに、往古とは郡界大に改まりしなり、されば村里の境界に至ては、猶沿革多かるべけれど、土人の口碑にも伝ふる事希なれば、今より知るに由なし、又往古荒廃の田、或は空閑の地お開避ありし事、三代実録に見えたり、〈其文下に註す〉夫より遥の後も猶広野の地〈高見原、実蒔原、波多野等なり、〉多かりしが、勝国以前に開墾ありしと見え、後世の新田は少し、〈◯中略〉 大住郡は国の中央にて、〈◯中略〉郡の形状、巽お首とし、乾お尾とす、東田村の境より、西澀沢村まで五里半、南根坂間村より、北日向村まで三里余、四境、東は相模川にかぎり、高座郡、西は足柄上郡、南淘綾郡及び海面、北愛甲郡なり、土地平坦にして、西北の隅にいたりて山嶺あり、所謂大山、堀内等なり、されば村落おなすに便ありて、空閑の地少し、土性は野土黒真土砂交れり、水田少く、陸田多し、〈水田二千九百五十七町二段一畝十歩五厘、陸田四千九百五十二町五段八畝二十八歩六厘、〉用水は玉川、鈴川、金目川お引用いる、郡の村数、正保の改に百七村、元禄の改に百二十七、前に比すれば増加すること二十、〈按ずるに、一村お上下に分つもの四村、某村枝郷と称するもの六村、某村内と唱ふもの二村、全く別村となりしもの八村、〉今十村お減じ、百十九村となれり、〈按ずるに、三村お合て一村とするもの一、又枝郷或は某村内と唱へし地お、本村に合するもの七村、又一村お上下に分つもの一所あり、全く地の減じたるにあらず、〉郡の石高、正保の改に六万六百二十一石二斗五升七合、元禄に至て、六万四千四百二十四石二升三合七撮、前に比すれば増加すること、三千八百二石七斗六升六合七撮、今百二十七石八斗八升七撮お減じて、六万四千二百九十六石一斗四升三合となれり、是は中古相模川、玉川等堀替ありし時、川敷となり、石高減じたるなり、〈某村々の条に弁あり〉此余寺社領、三百七十八石、寺社の除地少許あり、〈一石八斗九升五合、六勺七撮、及段別二町四段三畝九歩余の地なり、〉