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新編相模国風土記稿
五十四愛甲郡
図説 本郡古の形状お考るに、総て空閑の地多かりしお、承和貞観の頃、年お追て開墾あり、事は三代実録、類聚三代格等載する所に就て知べし、〈其文後に詳なり〉北条氏分国の頃国中お三分せし時、当郡は国の中程にあるお以て、中郡の内とす、〈役帳以下当時の古文書等、多く所見あり、〉北隣津久井県は、古大抵当郡に属せしお、後分裂せしといへり、〈下の条に詳なり〉東方相模川に辺せし地は、水路の変遷により、高坐郡と其境界互に混淆せし処も多かるべし、今古図の伝ふる物なければ、沿革の詳なるお知る由なし、〈◯中略〉 愛甲郡は国の中央より少しく北に寄れり、〈◯中略〉闔郡の形状、東お首とし、西お尾とす、東上依智村より西丹沢山中迄八里余、南厚木村より北三増村迄凡四里、郡の四境、東は相模川お限り高座郡に界ひ、南は大住郡に隣り、接壌及山嶺お以て界域となす、西は足柄上郡、北は津久井県に界へり、共に山嶺お以て界とせし所多し、地形、東は低く、漸々西上して高燥の地となり、中程より西界に至ては、山巒重畳し、所謂丹沢山巍然として足柄上郡等の深山に続けり、されば中程より以東に多く聚落おなし、又北の方に至ては、数山の踵止、或は峡間に孤村お結べり、陸田多く水田は僅に三分の一に当れり、〈◯中略〉闔郡の村数、正保の改に三十六、〈数内某村の内某村と題するもの二村〉元禄の改に十一お増て四十七、〈数内一村お五村に分つもの一村、上下二村とするもの三村、上中下となすもの一村、某村枝郷と題するもの二村、〉今は又四お減じ、都て四十三村となれり、〈元禄に比するに、上下お合て一村とするもの三村、上中下お合するもの一村、新田及枝郷お本村に併入するもの三村にて、其地の減ぜしにあらず、概して是お計れば、新田四村お増加せしなり、〉本郡の石高、正保の改に、壱万七千四百二十一石八斗一升四合、元禄に至りて、二万五百九十六石九升九合七杓五撮、前に増加すること、三千百七十四石二斗八升五合七杓五撮、又四千八百九十九石五斗八升余お、増加し、今は二万五千四百九十五石六斗八升余に至り、此余寺社領三百三十四石六斗余、