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新編相模国風土記稿
六十九鎌倉郡
図説 本郡は国の東方にあるが故、北条氏関東に跨有し、国中お東中西の三郡に分称せし時、即東郡と唱へしこと、北条役帳に見えたり、往昔右大将頼朝の、鎌府お開きし後、元仁元年十二月、鎌府四境鬼気祭お行はる、其四境、東は六浦、南は小壼、西は稲村、北は山内なりと、東鑑に見ゆ、是に拠れば、六浦小坪は、当時鎌倉府下の地なりと覚ゆ、今六浦は武蔵国久良岐郡に属し、小坪は当国三浦郡に隷せり、郡界の改革、文献の徴とすべきなければ、今考拠お得がたし、〈◯中略〉 鎌倉郡は国の東辺に在り、〈◯中略〉地形、其四至、東は三浦郡、及び武蔵国久良岐郡に隣り、南は海に辺し、西は総て高座郡に堺ひ、北は武蔵国都筑郡及び橘樹郡にも少しく接せり、東西へ長く、大抵四里半許に至り、南北は広き処に至て凡三里余に及び、狭き所にては三十町に足ざる処あり、陸田多く水田少し、用水には専戸部川の水お引沃ぎ、鼬川、砂押川、境川等の諸流おも灌漑す、されど三分の二は、山間の涌泉お引き、溜井お構へ、天水お仰て耕植せり、故に旱損の患多し、土性は砂礫錯れる地多く、真土是に次ぐ、野土糯米土は少し、農間の余資、海辺の村々は専漁釣おなして、江戸に運送し、鶴岡江島等の道側に、連居せる家は、参詣の遊客に、酒食及び諸物お粥ぎ、東海道係る処は、往来の旅客お休泊し、其他は採薪等お業とす、富饒の戸口は希なり、村数正保の改に八十一、元禄に至り八村お増加す、〈秋葉村、西村、山谷新田、腰越村、坂之下村、乱橋村お増し、野場お二村に分ち、柏尾村も上下とせり、〉今又二お増し、〈瀬谷野新田、江島猟師町、〉九十一村に及べり、高正保の改に、二万三千七百三十五石八斗一升五合、永千五百九十六貫七百四十二文、元禄に至り、高二万七千六百四十五石一斗四升五合六杓となる、前に増加すること、三千九百九石三斗三升六勺、永お減ずること、二百四十七貫九百四十一文なり、今又増加して、総高凡二万七千九百八十三石六斗九升余に及び、永は減じて、凡千三百十三貫四百文余となれり、此余寺社除地の分は省けり、