[p.0762][p.0763]
新編相模国風土記稿
百七三浦郡
図説 本郡は、国の東辺に在て、三面海浜に陸出して、地形他郡と同からず、故に北条氏分国の頃、各郡別称せず、東郡、中郡、西郡と闔称せし時、当郡は其員に入らず、単り郡名お唱へしこと、北条役帳に見へたり、郡界の変遷お推考するに、東鑑元仁元年十一月、鎌倉の四境お記せし条に、東小坪と載す、〈原文は小坪村の条に註す〉円覚寺塔頭黄梅院所蔵康安の文書にも、鎌倉郡小坪と記す、〈文書は黄梅院の条に出す〉倭名抄鎌倉郡の郷名に沼浜あり、鎌倉郡中其遺名なければ、当郡今の沼間村なるべし、〈事は沼間村の条に弁ず〉小坪沼間共に今本郡に属すれども、鎌倉郡に接邇せる地なれば、其頃は彼郡に隷せしなるべし、猶古の沿革は古図の伝るなければ知るによしなけれども、郡中桑海の変希にして、新墾も多からざれば、他郡に比するに沿革尚鮮し、〈◯中略〉 三浦郡は、国の東端にあり、〈◯中略〉闔郡の形状宛も島嶼の如く、東西南の三方は皆海に瀕し、北の一方武州久良岐郡、本国鎌倉郡に界す、其広袤は北より南へ長く、袤り六里、東西の広さ南辺は才に一里余、中央は四里にたらず、北辺は又狭りて凡二里に過ず、地形郡の中央猶高く、四辺は漸々に低し、其際山岳高低盤紆して平夷の地は希なり、陸田は水田より少しく多し、土地都て天水お仰て、耕植すれば旱損お免れず、土性は真土野土の両種にして、何れも砂交り、沃腴の土にあらざれども、農業の外、蚕桑、及漁猟お専として、生産の資とするにより、民戸頗る富饒なり、闔郡の村数、正保の改に五十九、元禄改に七十六、前に比すれば増加する事十七、今又四お増し、都て八十村となれり、本郡の石高、正保の改に二万千四百四十二石余、元禄に至て二万千六百二十七石余となり、前より増加する事千四百八十五石余、後又千六百六石余お増加して、今は二万四千二百三十三石余に至る、其余持添新田と号するもの〈後世墾開の地にして、各村に隷す、〉五十五石余、寺社領は百四十四石なり、