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新編相模国風土記稿
百十六津久井県
図説 本県、往古は愛甲高座両郡の内に孕まれて、林巒山岳多く、漸くに原野お開といへども、皆山間にして壙貌の地なし、就中西北の村落辺裔の地に至ては、嵯峨によりて墾避し、往々火耕の地も見えたり、其間の沿革あるも、滕国以前の図伝はらざれば、其詳なる事知るべからず、〈◯中略〉 津久井県、国の西北隅にあり、〈◯中略〉元禄四年、山川金右衛門が配隷せし時、闔境に令お下して自今已往県と唱へしむと雲、是よりして、郡名お冠らしむる事お省く、〈元禄国図、津久井県と記す、〉援に於て、一県の名唱定て、一郡の如く今猶然り、〈◯中略〉闔県の形状恰も科斗の形に似たり、西方は広袤崔嵬、南より北に宣り、十二里程、西より東に延袤する事八里に余れり、中程に至り南北へ三里許、夫より東方次第に狭まり、僅に二里若くは一里に足らず、〈北より西は甲州都留郡、南に逮ては国中足柄上郡お限る、同く険阻崔嵬、皆山岳お以て隔閡す、中にも西南間には蛭岳など雲へる大岳、郡界に跨て、突出したる地域より量らば、南北へ聯綿すること十七八里以上ならんか、又東西へ延袤すること十二三里にも及べし、南は愛甲郡お境ひ、北は中程より、西に連ては武州多磨郡なり、但し山お以て界とす、中程より東方によりては少しく境川お限れり、又は少しく相模川お限り、又高座愛甲の両郡、山お以て皆境界となせり、〉土地の高低、西は論なく、南より北に逮て山峯に拠りたる所は、頗る高燥の地多し、〈◯中略〉闔県の村数、正保の改に〈正保図に、津久井郡と書せり、〉二十九、元禄の改に〈元禄図に、津久井県と書せり、〉二十七、前に比すれば減ずる事二、〈按ずるに、正保改には、大井村の小名荒川と唱ふる地お別村とし、青山村の小名関と唱ふる地お別村とす、元禄改には、荒川お太井村に合て一村とし、関お青山村に合て一村として、二お減ぜり、其実は地の増減あるにあらず、〉今は二十九、〈按ずるに、元禄改に一村たりし長竹村、中沢村お、今は各上下に分ちて四村となしたれば二お増加せり、是亦地の増減あるにあらず、〉村高正保の改に、四千九百五十七石八斗五升五合、元禄に一万千八百十九石九斗六升三合、前に比すれば、増加する事、六千八百六十二石一斗八合、今は三十六石二斗三升九合お増加して、一万千八百五十六石二斗二合に至る、〈村数、増加せずと雲へども、各村の内、近世懇避の地多きが故なり、〉当県、神社仏寺の所領御朱印地、百四十一石八斗三升五合余、除地三百廿二石八斗九升一合八勺、外に段別七町三段五畝二歩、