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新編相模国風土記稿
二建置沿革
平相国清盛威権并なかりし頃より、諸国荘園の地多くなり、〈◯註略〉本州中も多くは武臣の私有となり、荘園〈◯註略〉と称する地、居多にして、古昔の郷名お廃し、或は私の郷名お唱へ、或は荘名お唱ふる地多くあり、〈◯中略〉庄名は、足柄上郡に、大井庄、〈◯註略〉同下郡に、早河庄、〈◯註略〉又此二郡に跨がりて、中村庄、〈◯註略〉曾我庄、〈◯註略〉大住郡に、豊田庄〈◯註略〉糟屋庄、〈系図纂に、閑院冬嗣の男良方、相州在国の際、男元方糟屋庄に出生すと見え、其男盛方、糟屋庄司と見えたり、〉波多野庄、〈◯註略〉愛甲郡に、毛利庄、〈◯註略〉高座郡に澀谷庄、〈◯註略〉大庭庄、〈保元物語、大庭庄司景房が子、相模国住人大場平太景義、同三郎義親とは、我事にて候と雲て控たる雲々とあれば、当時庄名お唱へしなり、今尚現在す、〉鎌倉郡に山内庄、〈◯註略〉吉田庄〈◯註略〉等あり、〈按ずるに、此他尚旧唱有べきなれど、今僅に所見に随て採録し、強て捜求せず、〉