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武蔵志料

武蔵国号考 当国の名付し故、その義詳ならず、又物には見る所なし、〈〇中略〉さてその文字も、上古は定まれる事なく、古事記には牟邪志と書たるは仮名書也、その後元明天皇の御宇に、国郡郷村の名お改めて、能字二字に定められし時に、武蔵とは書改められし也、故に此字によりては、その意推量るべからず、下にその事おしるしつけぬ、 第一 一通雲、牟邪志美也、その故は、牟邪は草也、志美は繁也、上古の時は、東方の国は未王化も及ばざりし故に、民の家居も定らず、もとより守司の官もなかりしほどに、唯木草のみ生茂りたれば、獣禽の住るのみなるべし、後の世にさへ、此国には八百里の壙野有と名に負て、武蔵野とさへいへば、行ども秋の果もなきなども、歌にも読て、天下の最哉一の事とはせる也、さも有つらん、〈〇中略〉 第二 又一通の説、此国は広く大なる故に、その隣国六有、それは相模、甲斐、信濃、上野、下野、下総なり、この六国に堺の差合たれば、六差(○○)といふ意なるも又知べからず、 第三 又一通の説、この国関八州の中央に有、是お人の形にたとふるに、相模お首とす、故に小首(さかみ)と雲ふ歟、武蔵その次に有ば、身の如し、身は武と通ひて、武久呂ともいへり、さしは古へ三韓の方言に城お左志といへり、此訓日本紀の古点に見えたり、しかれば中央城の意にても有べき歟、〈〇中略〉 第四 又一通説、右第三通は、文字にあづからず、詞と意とによりていふ所なり、さて元明天皇の御宇に、文字お改められし時、武蔵とせし事、是又その由故なくては協ふまじき事也、よて思ふに、秩父郡に武甲山といふ有、土俗伝へ雲、昔日本武尊東夷お征したがへ給ひて、その甲お此山に埋め給ひしと、その事摂津国武庫山の故事の如し、此山も定めて武甲(むこ)とこそ訓つらんお、字の音の俗に引れて、今はぶかうとはいへる、是又訛也、その武お用いたるか、蔵は扃にて、とざしの略し武事お収め、軍器お山にかくされし故、戸閉(とざし)といへるなるべし、〈〇中略〉 今按に、此事その故有に似たれども、武は音、蔵は訓なり、音訓相交へてその義おいはん事、強たりとはいふべからん、されども国郡名は、音訓相交へて用たれば、ひたすらその義無ともいふまじければ、しばらくしるして後の校正お待のみ、 第五 又案に、国名風土記に、秩父郡武甲山に、日本武尊の甲冑おとめ給ひし事おいへり、〈〇註略〉是は摂津国兵庫の武庫山の事お思ひ合せて書るにやとも思ふに、続日本紀〈二十九〉称徳天皇神護景雲二年六月癸巳、武蔵国献白雉、その勅に雲、国号武蔵、既呈戢武崇文之祥と、群卿の奏上しお思へばさいへる事有といはんも、また拠なしとも雲べからず、〈巻廿九の九丁の右〉 或人雲、武蔵相模は、もと上下の国也、古へ虜囚お武佐といへり、上古三韓の囚人お置し事諸国に有、摂津の高麗郡、当国にも高麗郡有、さて近江国の武佐の郡も、またその虜囚置し所なれば、相模は武佐上(むさかみ)の上お略き、武蔵にむさ下の下お略なるべしと、是上下国お分つの例也といへり