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新編武蔵風土記稿
五十四荏原郡
品川宿 品川宿は郡之東海岸に傍て在、海道五十三駅の一なり、府下に接近せるおもて、旅人往来猶繁し、駅亭三区に別る、一は南品川宿、一は北品川宿、一は歩行新宿なり、古は品川村と唱へしお、中古町と改む、其年代お伝へず、正保元禄の国図共に品川町と記す、又宿と改称するは、享保より後なりと雲り、郷庄の唱お伝へず、按ずるに、南品川妙国寺所蔵永享六年の文書お始として数通に、南品川郷と載せ、北品川稲荷南品川貴船社の御朱印の文に、品川郷の内雲々など記す、当寺多く某村と記すべきお、某郷と記せり、是等も其類にや、土人雲、古は品け輪と書しお、後今の字に改む、此地出崎或は山谷ありて、品よき地形なれば、隣村高輪に対して品け輪と名付と雲、されど高輪は高縄手の下略なりといへば、此説いかヾはあらん、又今宿内目黒川の古名お品川と雲しより、地名となりしとも雲り、南向茶話雲、元は下無川と雲しお、後に省略して、しなかはと唱へ、文字も従て仮借すと雲、或書に往古鎧の威に用る品革〈品革威のこと、源平盛衰記に、此奈革とは藍革に文にしだてぞ付たりけるなりとあり、〉お染出せし所なれば、地名となりしと雲、後の二説は、土人更に伝へず、全く附会の説信用すべからず、按に、文明八年、僧得糸が江亭記雲、南顧則品川之流、溶々�々以染碧、人家鱗差乎北南雲雲と、北品川とあるは、全く海上お雲しとも聞えず、恐らくは当時目黒川お品川と称せしこと、土人の説の如くなりしにや、されば川名より起りしと雲説穏なるべし、〈〇中略〉御打入の後は、慶長六年正月、彦坂小刑部元正、大久保十兵衛長安、伊奈備前守忠次等、東海道巡見の時、駅場に定められ、駅馬三十六匹お定額とし、五千坪の地子お免許せらる、此時歩行人夫の数も定められしなるべけれど詳ならず、