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徳川禁令考
五十二高札
享保三戌年十月 内藤新宿之儀、宿場相止候旨御書付、 内藤新宿之儀、甲州計り江之道筋に而、旅人も少く、新田之儀に候間、向後古来之通宿場相止、家居等も常之百姓町家にいたし商売物迄渡世為致可申候、猶自今猶以猥成儀無之様に入念可申候、右宿場相止候付而、馬次之儀も、古来之ごとく、日本橋より高井戸宿馬次に可申付候、新宿運上金不納并拝借金之儀者、追而可被伺候、 一右新宿之旅籠屋共、二階座敷之分不残取払はせ可申候、 以上 明和八卯年 内藤新宿継場相成候に付所々江相建候高札 定〈内藤新宿江建之〉 一内藤新宿より之駄賃并人足銭江戸迄 荷物壱駄六拾七文 乗掛荷人共同断 から尻馬壱匹四拾四文〈〇中略〉 右之通可取之、若於相背者、可為曲事者也、 明和八年月日 奉行〈〇中略〉 安永元辰年四月十一日 内藤新宿継場に相成候儀御触書 水野出羽守殿御渡 甲州道中は、江戸高井戸宿より人馬継来候処、内藤新宿継場に相成、当月十四日より、登りは江戸、内藤新宿、高井戸宿、下りは高井戸宿、内藤新宿、江戸と人馬継立候間、可得其意者也、 右之趣、向々江可被相触候、 四月 右之通可被相触候