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新編武蔵風土記稿
二建置沿革
上古国造時代には、今の武蔵国は、知々夫、〈今秩父〉無邪志〈武蔵なり〉胸刺三国の地なり、某開避の次序は、知々夫お初とす、〈〇中略〉知々夫彦命お国造と定らる、〈〇中略〉此後国造聞える事なし、且知々夫の地、国お降して郡とし、武蔵に併入せし年代亦伝お失ふ、〈〇註略〉無邪志国地域今考べからずと雖、旧本足立府お載するに拠ば、足立埼玉辺、数郡の地其管内にて、其界域は成務天皇五年に定られ、〈〇註略〉又兄多毛比命お国造と定らる、〈〇註略〉此後三百余年の間、無邪志国造のこと聞えず、当時の国府は足立郡に在て、今に大宮宿辺に遺跡存す、又応神天皇の御宇、〈按ずるに、国造本紀朝廷の号お闕、今考定して姑く此御宇とす、〉胸刺国造お伊狭知直に定らる、〈胸刺今何の地なること知らず、然ども西に知知夫あり、東に無邪志あれば、今の多磨郡の地なるべし、〇中略〉其年紀、想に無邪志国造お置れし後、朝は四世、年は百余お歴しなり、此胸刺も、人皇以来国造お置れし国数、凡百四十四の内と雲、〈国造本紀〉此後四世の帝王お歴て、允恭天皇の御宇、諸国境の標お立らる、〈〇註略〉此時は猶三国なりしにや、此後胸刺の国のこと、寥然として聞えず、是より八世の朝お歴て、継体天皇の御時、国造一族互に職お争しことあり、〈〇中略〉事勢お想像するに、当時既に胸刺国お廃して武蔵に入しならん、此時天下に畿内七道お置れし時、当国は東山道に隷せしなり、〈〇中略〉霊亀元年五月〈〇中略〉庚戌、当国以下六国の富民お陸奥に移さる、〈〇註略〉二年五月辛卯、高麗郡お置かる、〈〇中略〉神護慶雲元年十二月、足立郡人大部直不破麻呂等に、改て武蔵宿禰の姓お賜ひ、又不破麻呂お国造とせらる、〈〇中略〉宝亀二年十月、東山道お改て東海道に属せらる、〈〇中略〉天慶元年〈〇註略〉国司と郡司との争起しより、遂に平将門が乱お醸成す、〈〇中略〉将門誅に伏して後、恩賞行はれ、藤原秀郷、平貞盛、源経基等、英雄相継て当国の守に任ず、是此国坂東の大国にして、其守に任ずること、猶規模とすればなるべし、されば治績も愈新に、国務も違期の失なかりしならん、然に大宝以来、年所お経て、功田不輸の地域世々に多く、公武買得の庄園年々に加はる、遂に班田公平の法お廃墜せしむるに至り、各門戸お立、各荘園お有す、其猶著名なるは武蔵七党と号す、曰横山、〈〇註略〉曰猪俣〈〇註略〉曰野与、〈〇註略〉曰村山、〈〇註略〉曰西、〈〇註略〉曰児玉、〈〇註略〉曰丹治、〈〇註略〉是皆古の良民にして、後世の郷土なり、当時京師の大番お勤め、或は武者所滝口となり、或は牧監別当となり、帰て各家門の面目とす、是より先永承中に奥州安倍頼時、及男貞任謀反せし時、源頼義朝臣鎮守府将軍として征伐す、尋て其嫡男義家朝臣鎮守府将軍たりし時、又武衡家衡乱おなす、当時当国の諸士、皆将軍父子に従て多く武名お著す、〈〇註略〉故お以義家将軍の嫡孫、左馬頭義朝朝臣、鎌倉亀谷〈〇註略〉に在て源家の棟梁たりし時、当国の諸士皆心お寄す、義朝死して後、三男頼朝卿、配謫して伊豆国にあり、永暦より治承に至まで二十年に及ぶ、斯て最勝王の令旨お受て、平家追討の企あるに及て、闔国早く其下風に帰す、当時江戸太郎重長は江戸にあり、〈〇註略〉時に治承四年十月四日、河越太郎重頼、畠山次郎重忠等と、同く武衛将軍の長井の陣に参会す、〈〇註略〉同五日、将軍特に命じて、当国在庁以下の事お江戸太郎重長に沙汰せしめらる、〈〇註略〉又豊島権守清光、葛西三郎清重、足立右馬允遠元等も参向す、〈〇註略〉其余熊谷次郎直実、〈〇註略〉熊谷小次郎直家、〈〇註略〉平山武者所季重〈〇註略〉等参向して麾下に属す、〈〇註略〉是より先、当国の政、国守庁府に在て沙汰すと雖も、庄公雑糅せし故にや、秩父権守重綱撿校職として国務に与り、其孫畠山庄司二郎重忠に至るまで蔭襲す、〈〇註略〉治承四年、鎌倉殿早く全国お賜はり給ひて後も、重忠因循して職にありしならん、今年三月、六十六箇国の総追捕使並に地頭に補せられ給に及て、諸国に守護お置、庄園郷保に地頭お置れしかど、当国は鎌倉の領国たりし故、譜代衆国守に任じて、別に守護お置れざりしなり、〈〇註略〉又治承より今年に至るまで、乱国の際、国務の事も閑却せられしかど、この年丙午より乃貢お励済せしめらる、〈〇中略〉正治元年正月十三日将軍薨、治承よりこヽに至まで二十年当国お領せらる、〈〇註略〉其後宣下有て、左中将〈頼家〉故将軍の遺跡お続しめられ、二月六日、吉書始の儀あり、中宮大夫属入道善信吉書お草す、武蔵国海月郡事雲雲、〈〇中略〉建暦二年二月、守平時房入部の後、各郷に郷司職お補す、修理大夫泰時難ぜしかど、時房領掌せず、〈〇註略〉十月、奉行人等下向して民庶の訴お沙汰す、〈〇註略〉建保元年五月、横山党の人々、和田左衛門尉義盛が乱に与して、死者凡三十人、〈〇註略〉尋て勲功の賞行はる、〈〇中略〉康元元年十一月、相模守時頼病に依て武蔵守長時執権となり、当国国務おも沙汰す、