[p.0814][p.0815][p.0816][p.0817]
新編武蔵風土記稿
四建置沿革
永享〈〇中略〉十二年、結城七郎氏朝、故持氏の幼息お守護して結城に籠城す、管領の下知に依、討手発向す、上杉右馬助憲信入道性順は若林、長尾左衛門尉景仲は入間河原に陣す、〈〇中略〉今年より宝徳に至るまで九年、関東主無して諸国穏ならず、〈〇中略〉享徳三年十二月、管領右京亮憲忠お殺す、憲忠其罪にあらず、〈〇中略〉長尾入道、越信武上の兵お催て、成氏退治の御教書お京将軍に請ふ、〈〇註略〉康正元年正月、典厩鎌倉お立て、府中高安寺に動座、上州の敵退治の為なり、〈〇中略〉典厩は上杉と野州に戦けるが、上杉は騎西に退きて陣し、典厩は古河に動座、是より年久しく、此所お居所とせらる、〈〇中略〉二年正月、岩松右京太夫、上杉方と岡部に戦ふ、〈〇中略〉此年江戸城お築く、〈〇註略〉長禄元年四月、河越城成、〈〇註略〉岩槻城成、〈〇中略〉長享二年正月、両上杉未和せず、当国松山に戦ふ、〈〇註略〉秋、山内顕定、鉢形にあり、故道灌子太田源六郎、来従て平沢に居、〈〇中略〉永正元年九月、扇谷五郎朝良大将軍として立河原に陣お張る、山内の管領民部大輔顕定入道可純、及当屋形憲房、東八州の軍兵お催て会戦す、朝良敗して河越に入、〈〇註略〉二年三月、山内顕定父子河越お囲む、朝良和お乞ふ、依て山内は上州に、扇谷は江戸に帰入、〈〇中略〉享禄三年六月、上杉朝興と北条新九郎氏康、小沢原に戦ふ朝興敗北す、〈〇註略〉四年七月、古河御所政氏朝臣逝去せらる、久喜に葬り、甘棠院と号す、〈〇中略〉十四年九月、上杉憲政河越城お囲む、城中には北条左衛門大夫綱成籠る、〈〇註略〉十月、古河御所上杉加勢として河越に後詰せらる、〈〇中略〉永禄〈〇中略〉十二年八月、甲斐武田信玄小田原に攻入んとして、当国に兵お出す、〈〇中略〉元亀元年、北条氏政秩父迄出陣、信玄蓑輪に働くお以てなり、〈〇註略〉十月北条左京大夫氏康卒、〈〇註略〉三年閏正月、秩父新太郎氏邦、岩槻太田十郎氏房等兵お野州に出す、氏政の命に依てなり、〈〇中略〉天正〈〇中略〉十八年、小田原兵乱、〈〇註略〉時関白の命により、三手に分て当国に入、〈〇中略〉四月、青木城陥る、〈〇註略〉松山城留守の者も開城す、〈〇註略〉本田砦自落、〈〇註略〉河越城兵亦退去、〈〇註略〉八王子城お攻て是お抜、〈〇註略〉江戸城お受取、〈〇註略〉五月、岩槻城陥る、〈〇註略〉六月、鉢形城降る、〈〇註略〉秩父の諸城亦落著す、〈〇註略〉忍城主成田下総守氏長、和談して城お渡す、〈〇註略〉此余落去せし諸城は、小机、〈〇註略〉木栖、羽生、菖蒲、〈〇註略〉深谷、〈〇註略〉八幡山、〈〇註略〉久下〈〇註略〉其外砦尚数箇所あり、〈〇註略〉東照宮頓て北条氏の闕国お賜給ひて、江戸城お府と定られ、今年八月朔日御打入有て、旗下の諸士に領知お頒賜ふ、〈〇中略〉以上古来よりの変革お約言するに、上古三国お併て武蔵国とせられ、〈〇註略〉国造お置れて政治お沙汰せしめられしかど、元是国人なれば、しば〳〵我意の所行など、流弊お免れざりしにや、文武天皇の頃より国守お下向せしめ給ひて、国政の法改革せられ、国造は府に在て祭祀お掌れり、〈〇中略〉其際大宝に令お撰ばれ、延喜に式お撰ばれて、国法修理あり、文武兼備ければ国務怠らず、非違の患なし、斯て四百二十年お経て治承に至る、是より先、京家の政紐お解、諸国に庄園の弊起、年お歴て富は貧お兼、強は弱お併て、遂に不輸の田多きに至る、是に於て国衙庄園の政区別して、国守の治管内に偏きこと能はず、況保元平治大乱の後、諸平権お資にし、遂に乱階お生ず、兵衛佐頼朝に至て、天下全く武家に帰す、頼朝初義兵お挙るの日、四年庚子、朝恩お蒙、早当国お賜りて知行せらる、幾程なく六十六箇国の総追捕使、并地頭〈文治二年正月なり〉に補せらる、依て諸国に守護〈〇註略〉所有の庄園郷保に地頭〈〇註略〉お補せらる、当国は将軍知行の所なれば、唯一族縁家お吹挙せられて、国守に任ぜられしかば、〈〇註略〉守護の沙汰に及ばれず、されど畠山庄司川越太郎の如き総撿挍職たり、是亦守護の類なり、親王家将軍と雲へども、亦頼朝将軍の職お承継れしなれば、陽には当国将軍の知行所にして、執権北条氏国守に任じ、其家人お留守代として、府に置し也、〈〇註略〉故に天下諸国国守廃絶に至ると雖、当国最久しく国守の権威ありしなり、京都将軍の時、連枝左馬頭基氏お鎌倉に置て関東諸国お管領せしむ、此管領職、元是将軍の代官なり、されば基氏の子孫義氏に至る迄、九代お管領と号すべきに、後には僭称し鎌倉公方と称して将軍に擬し、其執事両上杉お管領と号するに至る、〈〇註略〉管領の時代に至ては、諸国とも或は勲功の賞に賜はり、或は自己の勢力お以、蚕食併呑し、数多の田地お有つの類多し、是お大名と号す、国守入部の政は絶果ぬ、然ども当国は上杉総領山内の家にて、世々守護職たりしなれば、其家人お置て、守護代目代等の職あり、〈〇註略〉扇谷持朝禅門の頃よりは、国中過半お押領す、〈〇註略〉此頃天下乱国となり、群雄割拠し、強は弱お兼、大は小お制す、況当国の如き両上杉干戈お邦内に動す、北条左京大夫氏綱小田原に在て、此乱お時とし、江戸河越両城お乗取、其子左京大夫氏康に至て、闔国大抵并呑す、永享禅秀乱以来、関東の戦争殆百年にして、天正庚寅大兵一度東して当国お一洗し、全く至治に帰す、郡村の沙汰に於ては、鎌倉将軍の時、建久七年国撿あり、承元四年田文お作て国務お定む、〈〇註略〉此頃久良お海月とす、多磨お分ち多東多西とす、埼玉お埼西とす、男衾お小衾とす、〈〇註略〉此後の書、或は武蔵二十四郡と称す、〈〇註略〉室町将軍の頃は、田数五万千五百四十町、大遠国とす、〈〇註略〉戦時割拠の時に至て、天文五年丙申、十一年壬寅、十二年癸卯、弘治元年乙卯、永禄二年己未北条氏撿地す、二月十二日、安藤豊前守が記せし帳の文に、専ら郡名お用ひず、郷庄の名お用ひたり、江戸〈属する所領広大なり〉葛西比企、足立〈別て上下とす〉多東、多西、稲毛、小机、入東、入西、高麗、川越、吉見、大抵右の如し、然ども八王子鉢形等の下邑は此外なるべし、天正年間、豊臣太閤撿地の時、国高六十六万七千百五石なり、〈天正記に見えたり〇中略〉当代旧に復して郡名お用ゆ、但総州葛飾半郡お併入して二十二郡とす、