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日本地誌提要
十八武蔵
沿革 古へ国府お多摩郡に置、〈今の府中駅是なり〉鎌府の初、平賀義信守護お以て州守お兼ぬ、建武中興、足利尊氏お守護とす、尊氏の反する、子義詮おして鎌倉に在て、本州お管せしむ、正平四年、義詮の弟基氏代て関東管領となり、本州お領す、永享の末、管領持氏亡びし後、上杉氏の所管たり、持氏の子成(しげ)氏、再管領たるに及て、復本州お領す、俄にして山内房顕、扇谷持朝皆叛き、成氏古河に奔り、関東大に乱る、長禄の初、将軍義政、澀川義鏡(あきら)お関東探題となし、蕨〈足立郡〉に鎮す、八州の士、命に応ずる者なし、既にして房顕は深谷に拠り、持朝は川越に居り、本州お分掠し、扇谷の被官太田持資江戸に城き、鉢形、岩槻諸城お修め、本州大半扇谷に属す、後持朝の子定正、山内顕定お破り、終に全州お取る、大永中、北条氏綱兵力日盛、遂に澀川氏お滅し、州の東南お蚕食す、天文中、其子氏康、定正の曾孫朝定お滅し、尽く其地お併す、天正十八年、北条氏亡び、徳川氏関東に遷り、府お江戸城に開く、既にして将軍に任じ、列藩お統帥する十五世、慶応三年、徳川慶喜(よみのし)政権お返し、即将軍の職お廃す、明治元年、徳川氏お駿河に封じ、乗輿東臨、皇居お江戸城に定め、東京と改称し、文武院省お設けて、庶政お分理し、府お置て都内の民治お掌らしむ、徳川氏の江戸に徙る、其子忠吉お忍に、酒井重忠お川越に封ず、忠吉転封の後、松平信綱、阿部忠秋、相代て封ぜられ、文政中、忠秋九世の孫正権(のり)白河に移り、松平忠尭(たか)封お受、川越藩は重忠転封の後、封お易る者、数氏、明和の初、松平朝矩(のり)お封じ、慶応中、其八世直克、厩橋に転じ、松平康英之に代る、其余前後封お受る者、岩槻〈初高力清長、後大岡忠光、〉岡部、〈安倍信盛〉金沢〈米倉昌尹〉凡て五藩、王政革新、都外の地、小菅、品川、神奈川、浦和四県お置き、金沢藩お改て六浦と称し、岡部藩お三河に徙す、既にして四藩皆改て県となし、又悉く之お廃して東京府、及神奈川、入間、埼玉三県お改置し、更に入間お廃して熊谷県お置、