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新編武蔵風土記稿
八十九多磨郡
府庁跡 郡の南北にては中央、東西にては東に寄れり、今の府中は、其遺名の地なり、上古国お治る人お国造といひ、毎国に府庁お置て、政務お行ふ所ゆへ国府と唱ふ、古代は当国も三け国にて、国造も三け所にありしこと、国造本紀に載たり、其後一国に合して、此所お当国の国府と定られしは、何の頃なりしやしられず、和名抄国郡の部に、武蔵国国府多磨郡にありと雲々、国史お按ずるに、皇極天皇の勅宣より、国造の号お改て、国司と唱ふるよしいへど、いかなる人お当国に任ぜられしと雲は、古記にも伝へず、文武紀大宝三年秋七月甲午、従五位下引田朝臣祖父為武蔵守と初て見えたり、〈〇中略〉夫より遥に世お経て武家の代となり、鎌倉右大将頼朝の時、郡国に守護お置、庄園に地頭お補せられ、国守の外に守護職お置れければ、上古よりの国政は変ぜしなるべし、その頃源義信が平治の乱に旧勲あるお以て、最初に朝廷へ請て武蔵守に拝し、義信当国守となり、府庁にて、国務無私、衆庶の歓心お得たりしかば、建久六年七月十六日、将軍書お以て褒賞し、後来当国の守たらんもの、義信が行ひお以て法則とすべしとて、其書お府庁の壁に榜せしめらるヽとぞ、是より当国守の法は、皆是に効ひしといふ、其後足利義氏は、北条時政が外孫にて武蔵守に任じ、任限僅にして、北条泰時武蔵守となれども、執権職なれば、鎌倉に居て国務お沙汰し、嫡孫経時、祖父泰時が譲りお受て執権職にて、是も武蔵守お兼たれども、同く鎌倉に在て、当国の府庁に赴ずして国政おとり、当国には守護のみお置しかば、府庁は此頃より廃せり、猶諸国是に同じかりしより、大抵北条の両執権、或氏族の内にて、相模守、陸奥守、武蔵守に任ずることにぞ成ける、其後元弘建武以来は、戦国の衢となり、やがて名のみのこり、荒廃の地となりけるが、あまたの年お歴て御打入の砌、府庁の旧蹟なるお以て、御畋猟の設として荊棘お掃ひ、其旧蹟へ殿舎お結構せらる、されども程なく寛永の末に丙丁の殃に罹り、其後は御造建はやみて、再び芝生の地となりけるが、宝暦中開墾せられ、今は悉く陸田となれり、土俗呼て御殿地と唱ふ、是上古より国府の旧跡なり、