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新編武蔵風土記稿
七十三久良岐郡
総説 久良岐は、国の東南、武相の界、海面にさし出たり、江戸より坤の方十里にして郡界に至る、〈〇中略〉和名抄に久良と記し久良岐と訓ず、〈〇中略〉海月の字は、固仮借なれど、久良の唱始終くらきと唱へ、其語音下濁して、くらげに近似たることは察すべし、此後京都将軍足利義詮、貞治四年鶴岡八幡社に出せし文書に、久良郡久友郷と記し、応安六年細川武蔵守頼之が鶴岡文書亦久良と書する類、此余儘これあり、其後文明五年、磯子村真照寺文書、及堀之内村宝生寺同十年の文書、皆久良岐郡と記す、此後は皆久良岐と記する時は、大概鎌倉管領の比より、唱によりて文字お書添し事知べし、郡の地域、上古の沿革は得て知べからず、安閑記に倉樔、立花、多氷、横渟四所に屯倉お置しこと見ゆ、倉樔は当郡の事ならんと雲説あり、按ずるに、此四倉皆多磨の府中より南に在が如くおもはるれば、倉樔の唱、転訛して久良岐となりもて来しも知べからず、遥の後鎌倉将軍の頃は、館お距事遠からず、殊に風景の勝地なれば、将軍もしば〳〵遊覧ありて、土地の繁華大方ならず、仁治の頃、六浦の切通開けて後は、愈往来の便お得たり、室町将軍の時に至ても、管領鎌倉に在住し、猶此地も賑ひしなれば、故水戸殿撰述の鎌倉志に、此地お相州に附して収入せられしも宜なり、〈〇中略〉郡域は、西南相模国三浦鎌倉二郡、東は総て海浜にて、艮にさし出たるは本牧村なり、因て此浦お本牧浦と呼ぶ、此所より江戸迄船路八里に及ぶと雲、西北に彎曲せる所お洲乾湊と雲、神奈川台と近く相望む、北の地先は橘樹郡、乾は都筑郡界に至る、広さ相州鎌倉郡界より海岸まで二里、或は三里、袤鎌倉郡峠村界より橘樹郡保土谷村界に至まで七里余、土性赤土多し、連山重畳して、陸田山林のみ多く、山間の平地に水田お耕すといへども、動もすれば旱損お患ふ、海浜に至ては漁塩の利あり、金沢迄は、北の郡界保土ヶ谷宿より郡内太田村に入、行程五里余にして町屋村に至る、〈〇中略〉土人の風俗他郡に変る事なしといへども、郡域海道の東に僻在するお以、寒村多く、土民も鄙野朴質なり、されど金沢の辺は、おのづから風俗も華奢にならへるは、鎌倉の遺風なるべし、郡域の沿革お考るに、和名抄当郡八郷、都筑郡六郷、及余戸あり、橘樹郡五郷のみなる時は、当時当郡彼二郡より大郡にて、今の如く扁小なるべからず、且星川諸岡二郷の如き、今見に隣郡に地名遺り、又小田原役帳に、今の橘樹郡岩間青木の地名お載せ、共に傍に久良岐郡と記する類に拠れば、後世境界変革して、郡域の狭りし事知べし、此郡鎌倉将軍の時は、将軍の領地なるべし、後管領の比は、上杉氏などの領地なりしにや、小田原北条氏割拠の頃は、旗下の人々分ち領せし事、役帳に載す、御入国の後も、旗下の知行、及御料所交れり、