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新編武蔵風土記稿
八十一都筑郡
総説 都筑郡は、其名義の起お詳にせず、又国史等にも、この郡名のあらはるヽものおいまだみず、〈〇中略〉当郡は、国の中央よりいはヾ、南の方にあたれり、其郡の南は、相模国鎌倉郡に接せり、その余の接界、多は橘樹郡の村々にかヽりて犬牙せり、上代の界域お考るに、その地のさま変革多くして、古のことは証すべきものも少ければ、今よりは知べからざれど、和名抄に載る所の地名お以て、今の地理お察するに、東の方より南にいたりては、そのかみより地形も甚変革ありしにや、今の郡中の村に、昔は橘樹久良岐の両郡に属せしとおぼしきものあり、まづ本郡に現存の高田村は、和名抄橘樹郡の郷名にのする高田なるべし、又上星川村と唱ふるは、久良岐に属せり、今久良岐郡の地は、南の方によりて、其間に橘樹郡の地、わづかにはさまりてあれば、久良岐郡は今接地とはならざるなり、されど正保元禄の図には、すべて接してみゆれど、夫より後の沿革なり、わづかの年代にてすら斯の如し、又郡の東北にかヽりては、皆橘樹郡に交り、乾の方は多磨郡にして、南は相模国鎌倉郡につヾけり、郡の広狭は、其さま数郡に犬牙したれば、詳に弁じがたけれど、凡東西へ三里にすぎず、南北は四里半に余れり、土地は、すべて陸田山林多ければ、谷間の平かなる処おえらみて水田お開き、又西の方多磨郡につヾきたる処は、小山連りて、土地も高く、東の方橘樹郡へは、自らなだれに卑き所に郡界せり、土性多は真土なり、