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新編武蔵風土記稿
八十九多磨郡
総説 多磨郡は、国の西南に当りて、当国の内にても、ことに大郡なり、多磨の名は、安閑紀に多氷屯倉とあり、この多氷は多磨郡のことなるべしと雲説あれども、さも思はれず、正しく古書にあらはるるは、和名類聚抄国郡の部に、武蔵国府多磨郡にありと、多磨お訓じて太婆と註す、今の府中は其遺名なり、江戸よりかの地へ六里に及べり、郡名の起る所は、さだかに伝へざれど、郡中三田領に、大丹波小丹波の両村あり、是古へ太婆と唱へしよりどころなるべければ、是より始ともいへり、一説に、多磨川の水源は、甲州都留郡丹婆山村より出で郡中に流れ入ゆへ、川の名も丹婆川と唱へしより起るともいへど、其本説さだかならず、後世すべてたまと唱へり、当郡は古へ入間郡へかけ、人家もまれにして、たヾ渺慌たる壙原なりしゆへ、公私旅行の者、やヽもすれば飢寒疾病の患あるによりて、多磨入間の両郡の界に、悲田所お置れしが、続日本後紀天長十年の条にのす、是郡名の初て古記にあらはれしものなるべし、〈〇中略〉中古に至り、東鑑に、建仁二年、上多磨川の水お通して、小机郷辺の水田お開かれしことおのすれど、是は稲毛領小机領の水田お開墾せられしことヽ見ゆ、夫よりあまたの年暦お経て、御打入の後より享保年間に至るまで、武蔵野の広原お開かれ、今に至りて八十余け村の、武蔵野新田と唱るもの出来たり、猶他郡にもかヽれど、其大半は郡中に在て、今の如く人家所々に散在し、耕作の地あまた出来しも、承応年間、多磨川お疎鑿して、水道お通ぜられしより、村民交々水利の便宜お得て、つどひ来り村落おなせり、古へ荒野の形勢は、変じて千陌うちまじりし耕畝の地となれり、又いつの頃よりか、郡お二つに分ち、多東多西と唱ふるも、入間郡の入東入西の如く、ふるきよりのことヽは見ゆれど、此唱の起りたる始は伝へず、建武の頃の文書には、既に所見あれど、夫よりは遥に古きことなるべし、思ふに入間郡埼玉郡の東西お分ち唱へしも、同時のことならん、治承寿永の頃には、埼西郡の名、まさしきものに見ゆ、又宝治の頃入西郡と出たれば、多西多東ともに治承などより上に唱へ初しなるべし、既に葛西郡の名も東鑑に見えたり、又東西お分ちし方位も、さだかにしがたし、多くは多磨川お以て分ちしなどいへり、按僧仙覚が、文永六年三月しるせしものに、葛西葛東は、大井川おもて堺とせりなど雲ことも見ゆれば、多磨川おもて分ちしと雲は、さもありなんか、郡の地形は、東西へ長大にして、南北は狭く、東は荏原豊島の両郡に対し、南は橘樹都筑の堺に至ては、犬牙なせし所もあり、都筑郡と相州鎌倉郡との間え少しく差出て、同国高座郡より津久井県までは、堺川の流お以て限とす、西の方は、又津久井県より甲州都留郡北にむかひ、秩父郡までは悉く嵯峨たる嶺岑お界とせり、高麗郡に抵ては成木川お限とす、入間に及ては金子領の民戸、陸田入合て、狭山の下に至る迄は、南の方へ少しくせばまりて、又東え狭山の峯お界とし、新座郡の限りまでは柳瀬川お界ひ、新座に及ては、土地平坦にして相接し、此四郡お郡界とす、すべて十二郡に係れり、東西の長凡二十二里半、南北の幅は、広き所にては六里に及べり、土性大抵野土にて、陸田多く、水田は東南により、川に従て平坦の地にあり、其辺は真土なれど、郡中にとりては僅の所なり、又三田領小宮領、由井領の内にも、山に接する地は砂別真土と唱る土性なれど、陸田多く、水田の地は至て乏し、郡中の地勢、東は低く、西の方へ漸々高くして、三田領の奥に至ては、村々の民戸、多くは屈曲して登れる山上にやどりおしめたり、高尾小仏の嶺より案下の嶺、並に檜原の山々並び聳へ、日原の巉巌秩父山の峯へ連続して、三つ峯山武甲山まで続き、〈〇中略〉闔郡の状は、南北の中間お、西より東へ多磨川流る、南に堺川並に都筑の岡つらなり、東は村里陸田平坦の地につヾき、北は柳瀬川お帯たり、又狭山の峯にかヽりて筥の池あり、北より西へ巡り、高麗秩父の峯続き、日原檜原の峻岳、案下小仏の嶺高尾山に至まで、嶮巌畳回して界おなす、されども郡の経界に至ては、後世沿革せしことにや、和名抄に載る郷名の中、勢多といへるは今の瀬田の地なるべし、此地名は本郡お出て、荏原郡に属し、当郡の界にあり、大岱村は入間の地にして当郡に飛入、日比田村は本郡の邑にして、入間郡の地にはさまれり、是等は全く後の世のことにて、変革せしともいひがたし、扠人物風俗等に至ては、させる別異なしといへども、西によりたる山谷の地は、男女常に山中へ入て、樹木など伐薪とするお以て生業とし、女も貨布の短衣お身にまとひ、うち混じたるさまは、さながら男女おも別たず、唯其鬚鬢の有無お以て知れり、言語応対に至ては、猶野鄙なり、是らの風俗は、頗る東方の諸郡に異なり、