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新編武蔵風土記稿
五十八橘樹郡
総説 橘樹郡は、国の中央より南の方にて、多磨郡よりは東南に続けり、郡名の起りは、其正しきことお聞ず、古事記及景行紀等に載たる、倭建命東征の時、相武国より船お浮べ給ひしに、海中にして船の進まざりしかば、后の弟橘媛海中に入給ひしにより、命の船忽進むことお得し条お証として、当郡にかの弟橘媛の墓ある故に、橘おもて地名とせしならんと雲説あり、今按に、郡中子母口村立花の神社は、弟橘媛お祭れるなりと雲ときは、橘媛の墓といへるものもし是なりといはんか、今彼社伝お尋ぬるに、更に証とすべきこともあらざれば、是等のことは今より知べからず、其正しく橘花の地名の正史にあらはれしは、安閑紀お始とすべし、〈〇中略〉其地の界域は、中古より甚変革せり古のさまは、今よりしるべからずといへども、試に和名抄に載る所の郷名おもて、今の地理お察するに、その郡中甚せばかりしと見ゆ、今の都筑郡高田村の辺より、多磨川の涯に至り、夫より川崎宿の辺お限として、南の方は今の神奈川の辺にて、久良岐郡に接せり、されば古代は、東西も南北も、才に三里にすぎざる小郡にて、南西のかた相模国と境お接せざりしなるべし、さてこそ和名抄に、郡おついづること久良お初として、都筑多磨に及び、次に当郡お載しも、其次叙お得しと雲べし、遥の後永禄の頃までも、久良岐の地は神奈川のあたりまで及びしならん、小田原家人所領役帳に、今の神奈川宿の内、青木町及び寺尾村などは、皆久良岐郡の地として記せり、御打入の後、正保図のなりし頃は、はや青木町寺尾等の地も当郡に入れり、夫も保土け谷の内岩間町の地は、やはり昔のまヽに久良岐郡に属せり、元禄年中、境界お改められてより、ほヾ今の如くにはなりたるならん、今見る所の界域の大様は、北の方多磨川お界として、荏原多磨の二郡に隣れり、その里数は、西北の隅、金程村より、東の方稲荷新田の出崎まで、凡七八里もあるべし、東南はすべて海にそひ、南のはては久良岐郡、及相州鎌倉郡に接せり、その里数六里余なり、されど鎌倉郡にまじはれる所に至りては、地形ことにせばまりて、わづかに東海道往還の辺にすぎず、其所に地蔵の石像一軀あり、世に境の地蔵と呼べり、これ武相の界なればなり、夫より郡の西辺は、すべて都筑郡に隣り、その界ひ屈曲してかけ入たるが如し、彼界より金程村に至るの里数八里にあまれり、是今の地形、古とかはりたる所の大様なり、〈〇中略〉土地はすべて西の方に山々連なりて、北より東南へは山の根お廻りて平地なり、その辺は自らひくければ、水田も多し、土性は多く真土なり、また山にそひたる方は、陸田山林多けれど、山谷の間才に平らかなる地によりて、水おたたへ水田お耕す所もあり、風俗は大抵近郡にことなることなし、されど都筑郡によりたる方は、山あひの寒村多ければ、人民質朴の風あり、