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新編武蔵風土記稿
三十九荏原郡
総説 荏原の郡は、其名義の起りしゆへお詳にせず和名抄お閲するに、郡中に荏原郷あれば、郷より起りし郡名なるもしるべからず、是豊島郡に豊島村、入間郡、高麗郡に高麗本郷あるの類なるか、或は古へ武蔵野の内にても、此地は荏草お多く植し処なればかくいへりとも言伝ふ、相模国鎌倉の郡に、荏草の郷などもあれば其伝る処故あるに似たれど、まさしきことお知らず、当国幡羅郡、備中国後月(しづき)郡、伊予国浮穴郡にも荏原郷あり、果して荏の多きお以て名づけしや、又別に故あるにや知べからず、此郡名は、国史等にあらはるヽものおいまだ見ず、万葉集に、天平宝字七歳乙未二月廿三日、武蔵国部防人安曇宿禰三国がまいらせし和歌の作者に、荏原郡物部歳徳同郡上丁物部広足が詠ずる所お載たり、是等古き書に顕るヽの初とせんか、和名抄に江波良と訓ぜしかば、其唱ふる所は古今同じきと見えたり、〈〇中略〉按に、此郡は古へ田多き所なりしにや、和名抄に載る所の郷名、多くは田お以てせり、蒲田、田本、満田、御田、木田、桜田是なり、今は田地猶すくなき郡なり、桑田の変は後の世よりはかりがたし、郡の方位は図にもあらはすごとく、大凡東の方は品川の海辺お限り、南に至りては多磨川の流おおひて、橘樹郡にとなれり、西の方に当りては多磨郡お境とし、北は豊島郡におよびて、江戸の地に接せり、郡の周廻おいはヾ、凡十五里に及びぬ、その内豊島郡にかヽること三里半ほど、海浜にそふもの凡四里なり、橘樹郡に接せし所凡四里半、多磨郡は三里余りなり、東西へ二里半ほど、多磨郡の境瀬田村より、海岸の方大井村に至れり、南北へは三里に近し、橘樹郡の境古川村より、豊島郡の境目黒村に及ぶ、巽より乾に至り四里余、多磨郡の境松原村より、海辺の方羽田村お限る、艮より坤の方へは二里半、是豊島郡の境上高輪村より、橘樹郡の境下野毛村に至るなり、すべて郡中の地勢おおすに、東の方海浜に近よりては、三分け一平地にして、余はみな水田、土性も真土がちなり、西北の方へつヾきては、村々すべて高低の岡つヾきなれば、田畠原野山林多く、土性も平地の方にくらぶれば大に異にして、野土黒土なれば、穀物に宜しからず、是お細にいはヾ、大井村より南の方、新井宿、一の倉、堤方、池上の村々皆岡つヾきなり、又池上村より南西の方も、久け原峯村、鵜の木村、治部村に至りては、ことに小山がちなり、こヽより海浜の方へは一円平地にして、数十村あり、其内大井村はもつとも海岸にそひたる村ながら、其内に小高き岡もあり、是よりは海ぎはまで凡七八丁許にて、広平の地なり、かの村々より西北の方は、皆岡つヾきにして、郡の境に至る、又目黒川の左右に水田ありて、其幅四五十丁許にて、品川の方海浜まで、行程一里あまりもうちつヾけり、この目黒川より豊島郡によりたる岡には、諸家の下屋敷、或は商家などあまたありて、江戸の方につけり、〈〇中略〉又風俗なども他郡にことならざれば、さしてしるすべき事なし、