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新編武蔵風土記稿
九豊島郡
総説 豊島郡は、国の東の方なり、倭名抄国郡部に、豊島お訓じて止志末と註す、風土記残編には、豊島或は砥島に作ると記す、今見に豊島村あり、是郡名の本郷なるべし、仁徳紀曰、十八年庚申春、令戸田真人蒐武蔵国豊島郡、得二頭之狐而帰奏雲々、是郡名の国史に見えし始なり、天下お七道に定られし始め、当国東山道に属せし頃より、当所に宿駅ありし事、称徳紀に見ゆ、曰、神護景雲二年三月乙巳、先是東海道巡察使式部大輔従五位下紀朝臣広名等言、武蔵国乗瀦豊島二駅、承山海両路、使命繁多、乞准中路置馬十匹、奉勅依奏雲々、此後四年お経て、光仁天皇宝亀二年十月、改て当国お海道に属せらる、今按に、大古は武相の界は、山野にて人跡通ぜず、故に海道は、相州より安房国に渡海し、夫より上総下総に達す、是武総の界も、蒼海に隔られしなれば、斯の如くならざる事お得ず、故に当時当国は山道に属して、上野国より府中に達し、又同道お反りて下野に達せしなり、然に安閑天皇より光仁天皇まで、世は二十二世、年は二百四十余年お歴るの間、武相の界避けて往来通じければ、相模国高座郡伊参駅と、常郡豊島駅との間に三駅お置れ、荏原郡大井駅より豊島に通じ、夫より乗瀦駅に至り、扠下総国葛飾郡の駅に達せしなり、然ども旧に依て当国尚山道に属せしかば、官使の来る上野国邑楽郡より横ざまに、同郡五箇駅お経て乗瀦駅に至り、夫より豊島お経て府に達し、事畢て又同道お反りしなり、されば豊島乗瀦山海両路お承くとは雲しなり、郡の地域、風土記残編には、東限下谷岡、西限箕田、南限藍田川、北限向岡と見ゆ、〈〇中略〉今の境界は、東は、荒川に至り、対岸は葛飾郡なり、北も荒川お界として、足立郡に隣り、西は新座多磨の二郡に接し、南は荏原郡にて澀谷川お界とす、東の方荒川の涯より西の方多磨新座の接界まで、凡六里許、南の方荏原郡の界より、北の方荒川の涯に至る迄凡三里に及べり、依て考るに、今の大城下町通より、都て浅草川荒川の涯に添し下卑の所々は、皆後世開けし所と知べし、天正以来当家御居城の地なれば、繁栄他に異なるお以、年お追て変革多し、御打入前の大概お考ふるに、国守下向せし頃は、今の多磨郡府中宿の地に府庁ありて、官人是に居しに、平家全盛の頃、当国に秩父別当重弘と雲者あり、其庶子重綱始て江戸と号す、其子太郎重長は、治承年間石橋合戦の後、源頼朝当国に来りし時、始て其麾下に属せり、東鑑治承四年十月五日条曰、武蔵国諸雑事等、仰在庁官人并諸郡司等可令致沙汰之間、所被仰付江戸太郎重長也雲々、按に重長父子在名によりて江戸と号する時は、今の府城の地に住せし事知るべし、重長又国衙の諸官人に頼朝の意お伝へし程なれば国中にて有勢の者なること知るべし、是当家御在城の地となるべき張本なり、又当時豊島権頭清光と雲者あり、秩父別当武基が庶子次郎武常が子孫にて、江戸と一族なり、是又郡中豊島村に住して其辺お領せり、鎌倉管領の時に至りては、扇谷の上杉修理大夫定正の老臣、太田左衛門大夫持資入道道灌、江戸城お築て城代としてこれに居る、当時当国の鎮とする所は、江戸川越の二城なり、大永年間、北条左京大夫氏綱江戸城お取てより、六十余年小田原の抱となりしが、遂に御居城の地とはなれり、御打入の後は、郡内すべて近郊にて、御料私領打錯れり、今東南の方は市店にて、繁華比倫なし、西北の方も、年お追て百姓町家数多出来して、寛文の頃より追々町奉行の支配となり、正徳年中に至て、専ら改て町方の支配に属し、其後に至りても、町並につヾきたる田畑お追々廃し、新に町家お建し分、同支配に加へられしもの若干あり、是お年貢地町並と称し、貢税の事は、旧に依て御代官進退す、此余御府内近き村民等、物商ふべきことの免許お得、農隙の業とするものあり、其地もとより町奉行には属せずして、御代官の支配なり、是お姑く百姓商買家といへり、闔郡の石数、正保の改に二万八千九百七十二石、元禄に至ては四万四千百五十石余に至れり、地勢西北に丘あり、其余は平坦なり、土性は真土野土錯て、水田多し、百姓五穀の外にも菜蔬お樹へ、或は芸園お開き、花木お養て粥ぐものあり、平常の農人に至りても、自ら府下お学びて浮靡の風俗あり、