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新編武蔵風土記稿
一百三十五足立郡
総説 足立郡は、国の中央より東北の間にあり、江戸より北の方二里半に当る、倭名抄国郡の下に、足立お訓じて阿太知と註す、其名義は知べからざれど、陸奥国にも安達と雲る郡名あれば、文字は仮借にして、あたちと雲る古言の義はいよいよ論じがたし、其名の起れる地も、今は唱お失ひたれど、神名帳に足立神社あるは、当時足立本郷ありて、其地にたてりし神社なること知るべし、今は彼神社の旧跡さへ慥に知べからず、郡の方位、西お上とし、東お下とす、其東は葛飾郡埼玉郡の二郡に境ひ、大抵古隅田川お限とす、南より西お上とし、荒川お界として、豊島、新座、入間、比企、横見の五郡に跨り、北は大里、埼玉の二郡に隣る、其大里の界は地続にて、埼玉の限は元荒川綾瀬の二流延宣す、闔郡巽より乾へ地先長く張出せり、葛飾郡の界より大里郡の界まで長凡十三里、横は東の方千住宿の辺まで一里半、それより西へ上れば次第に広ごり、中央にては三里半に至り、又すぼまりて、大里郡の界にては才一里に過ず、郡界かたの如く、大河の流お帯ぬれば、古の地域大抵変革なきが如くなるべけれども、〈〇中略〉古お以て考ふるに、元荒川綾瀬川の流などお通じ、綾瀬の川下、今の隅田川へ通ぜしあたりは、押なべて江海なりしお、次第に洲浜も出来、やがて変じて水田となりしなるべし、されば郡中水辺の所は、大抵五百年来新墾の地とおもはる、和名抄郷里才に六に過ずして、大抵戸田領赤山領の辺より、東南には郷里の遺名なし、是又古は今の如き大郡にあらざることお証すべし、其後年歴おへて、今の千住の辺まで寄洲出来しにしたがひ、東西の川岸も次第に地域やひろかりけん、頗大郡となり、郡中お二区に分ち、西の方お上足立と呼び、東お下足立と雲しと雲、本郡花又村鷲明神縁起、応徳の頃のもの、七百年の余なり、それに下足立郡と載たり、遥の後小田原役帳おはじめ、当時の文書等にも上下お分てり、此上下の界ひは、上谷村修験大行院文書に、大宮宿お限りてわかちし由見えたり、是又多磨郡に東西お分ち、入間郡も又同じきが如し、御入国の後に至りても、慶長寛永の頃、専ら開墾せしめ給ひしかば、ありつる原野沼地多く水陸の田となれり、夫より年おかさ子て弥田額増加せり、享保十三年、井沢弥総兵衛命お蒙りて、見沼鴻沼などいへる大池お埋みて水田とし、後又元文二年、堀江荒四郎荒川涯の閑地お新墾し。延享年間高入となりしにぞ、元禄国図改定の時に比すれば、万石余の貢税お加へたり、されば東の方中古以来新墾の地は、土性真土にして、水田多くして膏腴の地なり、夫より西へ次第に高くして、野土なれば陸田多くして瘠土なり、西北の方に至りては平坦の地ありて、水田開て土性もよし、〈〇中略〉郡中は多く耕作の業お専として、余業お事とするもの少し、