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新編武蔵風土記稿
一百五十六入間郡
総説 入間郡は、国の中央にて、江戸より西北の方七里許にあり、和名抄国郡の部に、入間お訓じて伊留末と註す、郡名の起は、郡中入間川村より始りしならん、其村今も入間郡に属し、村名も正保の頃までは入間といひしお、後世、川の字お添しとなり、くはしくはかの村の条に弁ぜり、又土人の説に、入間の字は仮借にて、その義は射魔なりといふ俗説あれど、こヽには取らず、〈〇中略〉当郡古は多磨郡に通じて慌々たる原野なり、都て是お武蔵野と号し、後世分ちて入間野と記せしもあり、〈東鑑に於入間野有追鳥狩と記せし類なり〉又三芳野の雁、〈伊勢物語に見ゆ〉堀兼の井〈枕草紙及千載集俊成卿歌の類〉の如き、郡中の地名、縉紳家の歌枕にも入しゆへにや、郡名も自づから世にいちじるし、後世に至りて、郡中の壙野多くは新墾して、悉く田畝となり、人家も従て出来にければ、古とは大にことなり、又中古より郡中お二分して、入東入西の唱あり、これ多磨郡お多東多西と別ちしに同じ、七党系図に、児玉惟行三代の孫、入西三太夫資行と雲人あり、その子お浅羽小太夫行業と雲、浅羽は則当郡の郷名なれば、入西も此郡名にとりしこと論なし、是古くより入西と分ち唱ふるの証となすべきや、又宝治元年、鎌倉公方より下文の案に、吾那入西郡と記せしこと、郡中今市村法恩寺所蔵年譜録と雲記に見え、世下りて天文永禄の頃も、専ら東西お以唱へしこと、小田原役帳、及当時の古証文などに歴々たり、〈〇中略〉郡の地域は、其形譬へば瓢箪の如く、中間狭まりて、その辺お入間川流るヽおもて、其地形二郡の如し、古入西郡入東郡と分ち唱へしも、其理なしとせず、彼括りたる如き所より、西へさし出たる一区は、高麗、秩父、比企三郡の際にはさまりて、東西の径り凡四里半、南北の闊さ、そのふくれたる処二里に余り、狭き所は一里に過ず、東の一区は、北の方比企足立の二郡に対し、東は新座郡に接し、南は多磨郡に包まれ、西は高麗郡にて、大抵入間川お以界とせり、南北の長五里、東西の幅三里半なり、二区お合し斜に延宣したる長は、殆ど十里に及ぶべし、土性は大抵野土にして、陸田多し、水田は西北の方川に添て、平坦の地にあり、すべて此辺の地勢お考ふるに、東は卑く西の方へ漸くに高くして、秩父郡の山足この郡中に始るに似たり、〈〇中略〉闔郡の形状、中間に川越城あり、東に柳瀬川流れ、南に狭山の峯つヾき、西はもとより秩父の方へ連れる山足にて、北は越辺入間荒川の三流延回して界おなす、されど中間高麗郡の地押入たれば、其詳なることは記しがたし、猶図と照し見るべし、然るに以上の経界は、後世大に変革せしと覚えて、和名抄郷名の中、広瀬などは今其遺名あれど、本郡に入ずして高麗郡に属す、又郡中法恩寺年譜録に載る大豆土村、今比企郡に属するの類にて知べし、人物風俗等に至りては、させる殊異なしといへども、西の方山に添ひたる地は、猶鄙野の風あり、