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新編武蔵風土記稿
一百七十六高麗郡
総説 高麗郡は、国の中央にあり、江戸より西北十余里なり、和名抄に、高麗お訓じて古末と註せり、〈〇中略〉扠本郡は、往古多磨郡より通じて、入間郡及び高麗郡に聯綿として、慌々たる原野なりしに、是おすべて武蔵野と称せしなり、すでに元弘年中、新田左中将武蔵野の合戦ありしなどいふは、即ちこの郡に宣りてのことヽ見ゆ、今の篠井村のあたり、塁壁の遺従あるも、その頃構へしものと見ゆ、又柏原村と広瀬村界の東辺、入間川お八町の渡しと雲伝ふ、是ぞ堤などもて流おさヽえし広闊なる所と思はるヽなり、又そのあたりお霞け関とて、当国に名だヽる名所は此所なりと雲、後世分れて入間野となり、或は入間の里と雲しならん、又高麗原と雲るは、今の新堀村辺なり、南北十三四町、東は的場村まで二里半許、渺々たる平原なりしと雲、〈〇中略〉按ずるに、霊亀の前此郡お置ざる時は、草昧慌々たる間地なるが、恐くは本郡もと入間郡の分郡と思はるヽ、〈〇中略〉既に前に弁ずるごとく、武蔵野と雲、入間野と雲、高麗原と雲、これすべて一円の武蔵野にして、杳渺たる壙野西に宣り、秩父郡の辺に至まで後世分れて漸々新墾し、或は田畠となり、或は村落となり、人家も従て出て来り、古とは異なること推て知るべし、〈〇中略〉郡の地域は、その形ち東西に長く、南北に狭し、中にも郡の中央と覚しき所は、括れたる如く狭し、さて其くヽれたる所より、東は原野田畠多く、村落其間に点綴せり、西は地形大率崎嶇、多くは嵯峨に拠りて畠おひらき、卑湿に就て田お作り、村落もまた高処迂僻、或は沢間渓流に添て民戸各処に散在す、然るゆへに山畑のあるあたりは、柴もしくは雑木もて藩籬おなす、謂ゆる鹿柴などヽ雲べき者か、又陥穽おうがちて猪鹿お防ぐ所もあり、西端に至りては、秩父郡の山々犬牙接続して経界おなせり、偖郡中お流るヽ川二流あり、北辺の村落お流るヽは高麗川なり、南辺の村落お流るヽは入間川なり、中間のくヽれたる所に至りては、両川相せばまりて、其間僅に一里許なり、この郡西は秩父郡に接し、西南間は多磨郡に続き、南より東北へ環りて入間郡なり、その界は、東より南へ入間川お界とし、仏子村阿須村の辺は山お界とし、上下畑村は成木川お界とす、それより西北へめぐりては、地形犬牙して山の頂お界へり、艮の方は原野田畠、或は径路おもて界とせり、以上の経界は、後世大に変革せしことと思はるヽなり、東西の長さ七里ばかり、南北の広さ三里には近し、中間の狭き所は一里半許、中央は中居村、中山村の辺なり、土性は大抵野土多く、真土少し、西の方山村は石交りの真土なり、水田は陸田に比すれば三分の一なり、其水田は多くは中間より東にあり、西の方には僅に谷つ田のみありて、多くは山畑なり、〈〇中略〉扠人物風俗等に至りては、させる殊異なしといへども、西の方山による村落は、なおさら年穀大抵一歳お終るにたらず、其民は総て山沢の利によりて生理おなす、材木もしくは炭薪お以て粟米に換ふ、このゆへに丁壮は杣取炭焼お業とし、処女婦嫗に至まで是お負担し、傭銭おとる、又は石灰やく村は、老弱みな是がために奔走して、各其資お得るといふ、最も鄙野の風俗にして、質朴とはいへども、寛富の民或は里老輩に至りては、頗る都下の風お学ぶものあり、