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新編武蔵風土記稿
一百八十六比企郡
総説 比企郡は、国の中央より少く北の方にあり、江戸より西北の方、郡界まで十里余に及べり、倭名類聚抄国郡の部に、比企お訓じて比岐と註す、此余郡名の古書にあらはるヽものお未だ見ず、地形東お首とし、西お尾とす、東の方は地幅狭く、巽の方へ斜に挿入し、地先尖りて足立入間二郡の間にはさまれり、此辺の地幅は一里半、或は一里に過ざる所もあり、東の界は市の川荒川落あひて延宣す、其市の川の対岸は横見郡なり、此所も古は郡中に属せしが市の川お郡界と定められしよりして、彼郡に隷せりと雲、されど土人今も猶其地お新横見と呼べり、又南の方は、越辺入間の二水落あひて流れ来れるなり、老袋村の地さきに至て荒川と合す、然るに此入間の川流しばしば水溢の患ありければとて、延宝八年、川越城主松平伊豆守信輝、命じて川口村及び出丸中郷の間お、横に疎鑿して荒川へ沃ぎけるより、水流大抵は彼新川へ流るれど、もとより下につくの水勢なれば、入間川の下流老袋までの古川も、所々にそこばくの水おたヽへて、その形現に存せり、又郡の地形、中央より西へ至りては地幅ひろくして、大抵四里にあまれり、南の方はすべて入間郡にして、北は男衾、大里、横見、足立の四郡にとなる、西のはては秩父郡、群山の麓に極る、東の方老袋村の界より当所原川村に至まで、郡の長八里余におよべり、中央より此あたりまでは、すべて野土にして瘠土なり、故に松山など多くして、田畠は少し、西の方山足に連れる渓間の窪き所には、水田お開き、又陸田お耕すもあり、もと便宜の地ならざれば、寒民多し、東の方足立入間に接せし方は、水涯の真土にして膏腴の地なり、此辺水田多くして、陸田は三分の一に当る、郡中の地、かたの如く広きお以、中央お界として南方北方の唱おわかつ、是多磨郡に多西多東の号あり、入間郡に入東入西の別あるが如し、万葉仙覚抄の奥書に、文永六年洗姑二日、於武蔵国北方麻師宇郷書写畢と見ゆ、麻師宇は今の増尾村なり、又朽木氏建治三年の文書に、武蔵国比企郡南方石坂郷と、又長楽寺正安元年の文書に、南方将軍沢郷と雲々、そのかみ南方北方の唱ありしこと証すべし、永禄の頃に至りては、此唱お失ひしにや、小田原役帳の地名には見へず、当郡古のさまお以考ふるに、国の中央より北にあたりて、多磨の府よりは、其間そこばくの壙野お隔て、足立府よりは、荒川の水涯閑地ありて、往来おさヽへたればにや、郡家お置れて郡中の事お沙汰せしなるべし、下りて鎌倉管領家の頃に至りても、郡中松山に城墎お構へて、上杉氏の家人お置き、分国の堅めとせり、又此頃京都将軍義尚、応仁元年正月廿八日、大館左衛門佐に与へし文書に、武蔵国比企郡、先例お守て宛行はるヽ由見えたり、按に大館氏は新田の一族にして、南朝に従ひしものなれど、同族岩松治部大輔等、早く足利将軍につかへて京師にありしなれば、かヽる所縁おもて京都につかへ、本領お安堵せしならん、天文年中、小田原北条氏の蚕食せし後も、松山城には上田能登守籠城せしが、御入国の後は、松平内膳正家広に賜はれり、慶長五年関け原役の後、天下も御武威に伏しければ、かヽる御備にも及ぶべからざればにや、同六年二月、家広遠江国浜松城へ移されてより、此城は廃却せられぬ、