[p.0851][p.0852]
新編武蔵風土記稿
一百九十六横見郡
総説 横見郡は、国の中央より北にあり、江戸より郡界まで行程十二里余、和名抄国郡の部横見の注に、与古美と訓じ、今吉見と称すと見え、又延喜式神名帳にも、横見郡の名見ゆ、小田原役帳に吉見郡と記す、永禄の頃も中古の俗字お用ひしこと知べし、又久米田村慶長十七年の水帳、及正保四年の水帳にも、皆吉見郡とあり、正保の国図に拠ば、当時官には横見と記したれど、民間には因循して俗称に従ひしも儘有なるべし、今当郡及隣郡大里の領名にも吉見の唱あり、地形巽より乾へ斜に闕入て、南西北の三面は大抵円形なり、東北は斜に荒川摎て、対岸は足立郡なり、南より西へは比企郡に隣り、市の川お界とす、西北の隅は大里郡に続けり、東西二里に足らず、南北一里半、郡西比企の方へ寄し所は山々重り、秩父嶺の山足才に出たるが如し、土性は赤土、野土、砂利錯、或は埴土、地底は石巌の処もあり、夫より東北はすべて平地にて真土なり、水田多く陸田少し、昔は荒川郡中お貫き、山野、下松崎、上細谷、黒岩村より御所村、範頼館跡の西お流れ、下細谷、久保田お前河内経て、江綱の北界より大串等の村々お流れしと雲、今其跡水田となり、字して相の田と呼り、地形他所に比すれば、一段卑くして川従顕然たり、当郡は足立府跡お去こと、僅に六里に過ざれば、当時府に隷せしなるべし、鎌倉将軍の頃に至ては、三河守範頼地頭として黒岩村に館せしと、今館跡の地別に一村となり、御所村と号す、範頼罪お獲て自尽せし後も、子孫猶郡中に隠れし由、岩殿山縁起に載たり、元弘の頃、新田義貞上野国より鎌倉へ打向ひし時、郡中松山の城廓お構へしとなり、続て鎌倉管領の時に至ても、松山城にかはる〴〵家人おおきて、北口の固とす、天文十五年四月、時の管領晴氏、老臣両上杉と同く、北条氏康が抱へし川越城お攻しとき、松山城主上杉朝定討死せし弊に乗じて、一旦氏康松山お乗取しが、管領家の侍岩槻の太田氏また取返す、斯てしばしば変革ありしが、終には北条の持となれり、事は松山城の下に委し、斯て四十余年は小田原の分国に属せしかど、天正十八年、北条滅亡の後、御領国となり、松平内膳正家広に賜りしが、慶長十八年、家広浜松へ転じて後、松山廃城となれり、其後は太平の御代となりければ、要害おも置れず、