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新編武蔵風土記稿
一百九十九埼玉郡
総説 埼玉郡は、国の東北、上野下野下総の三国に隣れり、江戸より北の方にて、郡中岩槻城まで九里の行程なり、されど郡の地域、多くは足立郡淵江領の東へ出たれば、其辺にては江戸より三里に及ばざるところもあり、和名抄郡名の下に、埼玉お訓じて佐伊太末と註す、其名の起る所以は、郷名の下にも埼玉あれば、これ郡の本郷なるべし、其地は今なお埼玉村といへり、万葉集の歌にはさきたまと読たれど、後世はさいたまと唱へり、〈〇中略〉和名抄の郷名お見るに、余戸雲々お加へて、ただ五郷のみなり、一郷五十戸にあつるも、当時二百五十戸にたらざる小郡なりしと思はる、其四郷の名、今庄名村名等に遺れりと覚ゆるもの三所、皆日光道中、葛飾郡杉戸宿の西北に当れる地にして、郡中和戸井沼辺より東南には、曾て古の郷名の残れると覚しきものなし、よりて思ふに、当時当郡は、足立郡の地先に属する小郡にして、三方は皆入江に包まれてありしならん、〈〇中略〉中古以来大郡となりしかば、埼西埼東の二区に別ちしにや、培西の唱あるお以考れば、埼東の唱もありしならん、多磨郡に多東多西あり、入間郡に入東入西あるにても推て知るべし、されど中古押なべて埼西と呼しにや、東鑑寿永三年正月三日の条に、武蔵国崎西郡内大河土御厨とあり、今郡の東南の境お少く隔て、葛飾郡内に大河戸村あるは、地の変遷して彼郡に入しにや、又東鑑建暦三年五月十七日の条には、武蔵国大河戸御厨内八条郷と記す、今八条村は当郡の内にて、猶東によりたれば、埼東とも号すべき地なるに、猶埼西と唱ふるにて察すべし、御打入の頃は、たヾ埼玉郡とのみ唱へて、埼西の沙汰見えず、此郡内は、後の世も沼地多く、或は水涯の閑地も少からず、正保改定の時は、郡の高二十三万六千石余なりしに、元禄に至ては三万石余の高お増加せり、享保年間、笠原沼、埼玉沼、黒沼などいへる沼地お埋み、三沼代用水、葛西用水の水利お鑿通し、若干の水田お開墾しければ、又万石余の高おませり、地勢の大略は、南の方に少しく丘岡ありて、こヽは瘠土なり、其余は平坦にして、水陸の田開け、膏腴の地多し、但山林乏少なれば、土民薪木に苦めり、今は郡の四隣、大抵川流お界とすれども、一条の流にして、古の入江の形は失へり東より南にわたりては葛飾足立の二郡に界ひ、古利根、綾瀬の二流に限り、西は元荒川お隔てヽ、足立郡及福川お隔てヽ幡羅郡の外、大里郡の地につヾけり、北は利根及び間の川、渡良瀬の三川お限として、上野国邑楽郡、下野国都賀郡、下総国葛飾郡などの地なり、郡の東西の長、凡十五里、葛飾郡の境より西の方幡羅郡の境に至る、其状西より北に広まり、巽の方へ長く張出たり、南北の闊は東の方岩槻辺にては二里に過ず、西へよりては四里半に余り、最西のはては又二里半許となる、〈〇中略〉当郡古は小郡にして、足立郡の地先の如くなれば、久く足立の府に隷せしなるべし、新築の地開けて後、鎌倉管領の頃は、忍、岩槻、羽生、騎西の数城ありて、各自に割拠せり、小田原北条氏の時も同じさまなりしかど、御当代となりては、騎西羽生の二塁お廃せられ、忍、岩槻二城に、御譜代衆お置れて鎮とせらる、