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新編武蔵風土記稿
二百十九大里郡
総説 大里郡は、国の中央より北にあり、江戸より西北の方郡界まで十二里余、和名抄国郡の部に、大里お訓じて於保佐土と註す、又神名帳にも此郡名見えたり、今郡の東お、過半上吉見領と雲、按に隣郡横見郡お都て下吉見領と号し、和名抄にも横見の下に注して、今吉見と称する由載たり、然れば当郡東の境変地ありしか、又は隣郡の唱の移りしなるべし、郡の四隣、東は横見、足立、埼玉の三郡に連り、埼玉の界は大抵元荒川お界とす、南は比企男衾の二郡に接し、西も亦男衾榛沢の二郡にさかひ、北は埼玉幡羅の二郡なり、地域巽より乾へ三里許、艮より坤へは僅に一里余、南の方比企男衾の郡界は小山の間に接はれり、土性は野土赤土錯り、陸田及秣場あり、其余は平地にて、大抵真土なり、水田多く、陸田は才に三分の一に当れり、往昔の事体お察するに、当郡は国の北方に有て、多磨足立の府よりも便あしければにや、大領の郡家お置れて、郡中の沙汰ありしと聞ゆ、此郡家の廃せし後は、如何なる人の此地お領せしや、其伝ふるところお詳にせず、仁平久寿の頃、新田上西入道領せしより、子孫へ伝へて、岩松治部太輔へ譲与へし由、其頃の文書に見ゆ、世下りては、小田原北条氏、忍の成田氏の領地錯りしと覚ゆ、又武田信玄が一族源三郎へ与へし文書に、大里郡一円、恩賞として出置と雲文あり、これに拠れば、当郡こと〴〵く甲州の指揮に従ひしにや、兎角中古の事は知べからず、天正十八年以来、年お追て麾下の士に賜はり、今は御料私領打錯れり、