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新編武蔵風土記稿
二百二十二男衾郡
総説 男衾郡は、国の中央より北に当り、江戸より西北の方にて、郡境まで行程十六里に及べり、和名抄国郡の部に、男衾お訓じて乎夫須万と注す、郡名の起り詳ならず、〈〇中略〉郡の地形東西へ長く、凡六里半に及び、南より北へは狭くして一里半許、東の方比企大里二郡の際にさし入たる所は、殊に地幅せばまりて、才に半里に足ざる所もあり、四隣のさま、東は大里郡に界ひ、南は比企郡に隣り、西は秩父郡に至り、北は荒川お以て郡界として、其対岸はすべて榛沢郡なり、今按に当郡東の方大里に辺せし地、古へは彼郡中にさし入しとみえて、元徳三年より以来、応永の頃まで数通の文書に、男衾郡小泉郷とのせ、嘉慶三年及び応永二十八年の文書に、男衾郡和田郷とのせたるあり、この小泉和田の名、共に郡中にあらざる村名にて、隣郡大里にある地名なり、しかも和田村は当郡野原村に隣れる地なれば、その地のことなるべし、されば古へは彼郡内和田村の辺より小泉村のあたりまで、すべて当郡の内なるべしと思はる、郡の地勢お考ふるに、東の方は平衍の地にて、中央より西の方へは次第に高くして、そのはてに至りては秩父郡の群山に連りて、山々重り立り、土性は多く野土にして、或は石真土等の処もあり、水利すべて不便なれば、天水お仰ひで耕作おなす、故に陸田は多くして、水田は三分の一に当れり、〈〇中略〉当郡古への様お考ふるに、国の中央より北にありて、多磨の府よりは其間若干の壙野お隔て、足立の府よりは荒川の水涯閑地ありて、往来の道お隔てたればにや、郡司お置れて、国務の指揮ありしなるべし、下りて鎌倉管領の頃に至りても、郡中鉢形に城墎お構へて、上杉氏の居城となし、郡中の事お沙汰せしに、天文年中に及び、上杉の旗下藤田右衛佐康邦、当郡及び榛沢幡羅の三郡お兼領せしこと、彼家の譜に見ゆ、其後康邦上杉に背きて北条氏に属し、氏康の三男虎寿丸氏吉お養子として家督お譲り、後北条安房守氏邦と号し、鉢形城に在りて郡中お治しむ、斯て天正十八年、小田原滅亡の時、氏邦も前田利家に降て、領地悉く没収せられし後は、関東一円に御料所となりしにより、又此地の要害に及ばざれば、鉢形城は廃却せられぬ、然りしより後、郡中は御料及び旗下の士の知行と交錯せり、土人の風俗さまで近郡に異なることなけれど、秩父へよりし方は、悉く山村にして、猶朴実の風多し、