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新編武蔵風土記稿
二百二十六幡羅郡
総説 幡羅郡は、国の中央より北に当り、江戸よりは亥の方にて、郡の境までは、行程凡十七里、郡広狭は、四方大略同くして二里余に及べり、和名抄に、幡羅の仮字お字訓にて原と訓ず、是同書郷名に幡羅あれば、全くかの郷より起りし郡名ならん、今も郡中に原郷存せり、又中古郡名にも原の字お用しこと、今郡中に在る水帳に見ゆ、按和名抄郡郷の字は、国史に雲如く好字お用しこと勿論にて、後世は簡便に従ひて、或は二字お一字に改しこと、他にも此類多し、〈〇中略〉郡の四域、東は大里埼玉の二郡にとなり、南も大里郡につヾき、西は榛沢郡、北は上野国邑楽新田の二郡なり、此国境古くは利根川お限るといへども、変遷ありて今は大抵当郡の方へ瀬もうつりて、古利根川お堺と定る所多し、郡中概して平旦の地なり、土性は真土なれば、頗る膏腴の地なりといへど、水利は便よからざれば、自ら陸田多くして、水田はとぼし、かの陸田の廻りには、多く桑の木お植て蚕お養へり、されば紡織の利もまた少からずして、他郡に比すれば高免の地なり、南の方に中山道の往還かヽれり、その通ずる所、大里郡新島村より入て榛沢郡深谷宿に貫く、其里程一里半に過ず、〈〇中略〉上古より此辺お領せし人は詳ならず、たヾ承和の比、冷然院の御領に充奉りしことは、上にいへるごとし、成田家譜お按ずるに、武蔵守忠基より三代の孫道宗と雲し人、此に住し、幡羅太郎と号す、しからば道宗の父武藤大夫家忠、武蔵の藤氏にて、はやく此地お領せしお、道宗に至りて、其領する所の郡名おもて、かく唱へしにあらずや、道宗の嫡男成田大夫助高も、打続てこの辺お領し、二男別府次郎行隆、三男奈良三郎高長、玉井四郎助実、是等皆郡内に散住し、その地名おもて家号とせり、是東鑑等にあらはるヽ者なり、されば其支属も延蔓して、此地に居しことしるべし、郡の東の方忍領に属する村々は、天正の頃まで成田家の所領にして、西の方は鎌倉管領の世となりしより、上杉陸奥守憲英、榛沢郡深谷に城お築き、此辺お領せり、今深谷領と唱ふる地は彼旧領なり、御入国の後は、大抵御料私料うち雑りて、寺社の領も才にあり、土人の風俗近郡に同じ、