[p.0858][p.0859]
新編武蔵風土記稿
二百三十榛沢郡
総説 榛沢郡は、国の北にあり、江戸より西北の方、郡界まで行程十八里、和名抄に、榛沢お訓じて波牟佐波と註す、〈〇中略〉榛沢郷より起りしなるべし、相伝ふ、古榛沢村の辺大なる沢あり、其左右に榛の木立りし由、今も其辺榛の大木許多ある類、土地榛に宜きこと知べし、郡名の所由も是が故ならん、後世或は半沢と記せしものあるは仮借せしなり、闔郡の状、東南隅は狭まりて尖たるが如く、西南北の方へ張出せるさま、其形扇面に似たり、されば広狭も定かに言難けれど、大抵東西四里許、南北五里半、東は幡羅大里の二郡に隣り、南は総て男衾郡にて荒川お界とす、西は那賀児玉の二郡につヾき、秩父郡の地も少しく出たり、北は上野国新田佐位の二郡にて利根川お国界とす、然るに此川瀬は後世変革ありて、中古まで上野に属せし村々の、いつとなく郡中へ入しもあり、小田原役帳に、上州高島郷と載せしもの、今郡中に属し、又郡中花蔵寺の棟札に、勢多郡横瀬郷と記す、勢多は則上州の郡名なり、此類にて察すべし、其変革お考ふるに、隣郡児玉の内、山王堂仁手のあたりは、総て上州那波郡に属せしお、寛永年間の洪水に、烏川の瀬北に移てより以来武州に属すと、上野国志に見えたり、想ふに此時変革せしならん、郡の地域、東は平坦にて、中央より西へは山々連り、秩父那賀の方へよりては高山并立す土性は、南の方荒川の辺、及北の方利根川に寄たる地は、真土に砂交り、それより漸く川に遠かり郡の中央より山丘に至りては野土と赤土となり、水利不便なれば、陸田多く、水田は少し、郡中西の方は、田畔に植るに桑お以て、蚕お育て紡織お専とす、〈〇中略〉按上古当国東山道に属せし頃は、官道にて、当郡もその街道にかヽれば、繁栄せし地なるべけれど、是は猶古代の事なり、東海道当国に移りて後は、人跡もすくなく、次第に僻遠の地となれり、七党系図に、榛沢三郎成房、其子小太郎、及六郎成清、〈成清は東鑑にも載たり〉平六郎成長等お載す、是等皆郡中の人にて、此辺に館おかまへて、一族も多かりしこと知べし、上杉管領の時、同氏陸奥守憲英深谷に在城し、其家人等郡中に散住せしと雲、中にも花園山に、居城おかまへし藤田氏の如きは数世土著して、威お近郷に振ひしなり、北条氏康の時に至り、藤田右衛門佐康邦が乞に因て和睦の時、三男氏邦おかれが養子として、隣郡鉢形に在城せしに及て、郡中皆小田原分国に属し、天正十八年、北条氏滅て後御料所となり、旗下の士の采邑も打錯れり、