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新編武蔵風土記稿
二百三十五那賀郡
総説 那賀郡は、国の中央より西の方にて、少しく乾によれり、江戸より凡二十二里、東は榛沢郡に界ひ、南は秩父郡にて山々お隔つ、西北は児玉郡に接して、接界大半は、見馴川お限りとす、此川広木村の辺にて、児玉村の方へ流れ入れり、闔郡乾より坤へ地先長く、凡三里許、南北狭く、郡の形長くして、下ぶくらなり、其開きたるは東寄にて、僅一里半に過ざる地なり、〈〇中略〉又倭名抄国郡の下に那珂と出せり、元禄国図には那賀と書せり、諸国に那珂郡あるは、中の郡の心なるべしと、僧契冲いへり、今も賀美那珂と並びしによれば、上中の義なるにや、されど国の西北に当れば、定かには雲ひがたけれど、古は当国三つに別れしなれり、当時の事は別に故あるなるべし、〈〇中略〉御打入の後は、大抵御料所と旗下の人の知行と打交れば、其後次第に原野お開き、又分村等ありければ、元禄の頃は、正保の改より四村お増加して、今も替らず、たヾ僅の新避の地高入となりしのみなり、郡中南北はよほど高き山打続き、東北の二方は次第に低し、されば陸田多くして水田は少し、多くは天水お湛て耕植せる故、干損多しと雲、其低き所にては専水溢あり、土性は近郷と同じく、真土野土砂交りなり、〈〇中略〉郡中耕作のみおことヽし、余業おなすもの少し、