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新編武蔵風土記稿
二百三十八児玉郡
総説 児玉郡は、北の国界にあり、江戸より郡境まで二十一里余、西の方上野の国境まで二十四里余、秩父郡境まで二十六里お隔つ、和名抄国郡条下に、児玉郡お訓じて古太万と註す、其名の起れる地は、今の児玉町下児玉村なるべし、闔郡乾より坤の方へ、地先長く張出て、其径り凡六里半、幅は本庄宿の辺にて一里半許、西によりては一里程の処もあり、東は榛沢郡に境ひ、巽は那賀郡、南も同郡にて身馴川お隔とす、坤は秩父郡に交はり、山丘お境とす、西は神流川に限り、対岸上野国緑野郡なり、四域かく山川お以限りたれば、古来変革なきが如くなれど、利根川に添たる杉山、新井、都島、山王、堂沼、和田、仁手等の数村は、古上野国那波郡に属せしお、寛永年中の洪水に川瀬変りて、当国に入しと、上野国志に載せ、隣郡榛沢郡横瀬村華蔵寺大日堂、天正十一年の棟札にも、上野国新田庄勢多郡横瀬郷雲々と記し、又和名抄賀美郡郷名に小島と載せしは、全く今の当郡小島村と覚ゆ、変革ありしこと知べし、按に、本郡は当国七党の一、児玉党の住せし地なり〈〇中略〉中古は足利氏の領に属し、天文永禄の頃は小田原北条氏の所務なりしこと、寺社の寄附状等にも見えたり、御打入の後は、大抵御料所と、旗下の人の知行と打交れり、郡内坤の方のみ山丘に続きて、其余過半は川に添たれど、水田少くして陸田多く、土性陸田は真土にて、水田は砂交の野土なり又川によりて便宜の地なれど、やヽもすれば水溢の患あり、また秩父那賀両郡に接したる辺は、水利不便にして、旱損お免かれずと雲、〈〇中略〉郡中耕種等余業、及風俗の異なることなし、