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新編武蔵風土記稿
二百四十三賀美郡
総説 賀美郡は、国の乾の方にて、上野の国界に当れり、江戸より二十三里余、倭名抄国郡の下に、賀美お訓じて上と註す、按那賀郡と並ぶときは、上中の義理なるにや、他国にも賀美那賀の郡名は例多し、〈〇中略〉上古は当国山道に属し、宝亀年中、改て海道に属せしかども、猶もとの官道は廃せずして、山道両路かヽりし事、続紀に見ゆ、当時郡中官道に係し事なるべし、されば戦争の世に、上野国より打て出て、武蔵野にて戦ひ、或は五十子にて対陣し、または阿保原合戦の類、皆郡中に大道のかかりて、此辺要地なる故なり、中葉以来辺鄙の地となりたれば、土地変革もあるべけれど、今其伝お失ふ、今の地域、東南のみ地続きて児玉郡に隣り、三方皆水流お界とす、西は上野国にて神流川其界お流る、北も同国にて烏川お限り、艮に至りて利根川と合ふ、此所は寛政中に変革して、今の如くなりしと雲、郡の形大略南北へ長し、其内坤の方児玉郡界に至りては、地先尖たる如く差出たり、此郡界より艮の方、上野国界利根川岸八町河原村まで、長凡二里半、東西の径りは郡の中央広き処にて一里許、それより南北へ次第に狭まりたれば、里程斉しからず、御入国の後は、大抵御料所にして、私領も少く交れり、郡中平坦の地にて、田少く畠多し、土性真土なり、川に添て屡水溢する所は、変じて砂石混雑せし所もあり、すべて此辺は水災多く、東南に至ては旱損お患ふと雲、村民等耕種お事とするのみにて余業なし、