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新編武蔵風土記稿
二百四十六秩父郡
総説 秩父郡は、国の西偏にあり、江戸より西北二十里余なり、和名抄に、秩父お訓じて知々夫と註す、郡名の起りは、もと国名より起り、〈〇中略〉郡の地形は、前に弁ぜし如くなれば、奇峯秀岳相聳へ、険阻狭隘の地にして、少しくひらけたる地は、大宮郷の辺、或は横瀬、太田、及吉田辺は水田ありと雲へども、十が一にして、其余陸田も多くは高燥により、火田の地は層巒おひらけり、土性は真土といへども、悉く小石交り、其他黒赤の野土多し、村落はすべて山川に包まれ、谷川余多曲流せり、大ひなるは荒川にて、西の方窮谷より出て、郡の中央お東に走流す、闔郡の地域は、狭き地にては六七里、東の方より艮の方までの界は犬牙して、高麗、入間、比企の三郡に隣り、夫より北寄に至ては、男衾、榛沢の二郡、同く犬牙して山峯お界とするも、屈曲して榛沢郡と那賀郡の界に至ては荒川お限とし、那賀郡より又峯巒お界として、西の方へ漸々少しく縮まり、夫より児玉郡に接附して、上州甘楽郡までは、北寄へ張出し、同郡山中領と神流川お界とすること二三里許、同郡と信州佐久郡、甲州の都留郡国界まで、峻岳万重お堺として、円形の如く大ひに張出し、又西の方甲州都留郡と多磨郡の界までは、漸々縮て国界おなすこと悉く高山にて、多磨郡に至りても、山峯お界ひて高麗郡に及べり、西の方は上信甲の三国にとなり、其余すべて九郡にかヽれり、東の方より乾の方へ凡廿四里許、南より北へ広きところにて十四五里、〈〇中略〉郡の経界に至りては、後世沿革せしにや、小丸峠の東、上我野郷七け村は、今本郡に隷すれど、旧き撿地帳には、高麗郡上我野郷と記し、又高山村不動堂、及阪石町、分法光寺、天正十九年の御朱印に、高麗郡吾野の内とあれば、本高麗郡なること論なし、土人の説に、妻阪峠の東、上下名栗村、及皆新田峠の東、皆谷、白石、御堂、安戸、椚平、大野の六け村、合て十五村お外秩父と雲、按ずるに、元高麗郡にして、後本郡に属せしものか、和名抄入間郡の部に、安刀とありしは、今安戸村ならんと、その地入間郡とは比企郡お阻つれど、前の六け村もしくは高麗郡に属せずんば、入間郡ならんか、さあれば入間郡の安刀ならんも当れり、思ふに、往古は妻阪峠小丸峠、皆新田峠お限りて、是より西お本郡とするものならん、扠闔郡の外に接附せし秩父なればとて、いつしか外秩父の名おこれるに因循して、往古よりの地お呼て奥秩父とは称するならん、土産には、生絹、横麻、煙草等お第一とす、山より出せるものは、金、銀、銅、鉄、磁石、寒水石、緑青、或は木石おも出せり、土風人物等に至ては、させる殊異なしといへども、深山幽谷に僻在するものは、自ら木訥にして、童齔より白首に至るまで、月代お剃ざるもの有て、偏に総髪の如く、婦嫗も眉毛お剃ずして白歯なるあり、婦も男と斉しく短褐お著し、山谷に動揺し、凍寒に至りても、唯褐おもて重子襲ふのみ、いぬるにも臥具の設なく、よもすがら夫妻子母炉火お擁して睡り、灯は松根お焚けり、婚姻喪祭の礼の如きは、いかにやあらん、辺境の譬へに放言せるは、酒店へ三里、豆腐屋へ二里といへるも、斯る山中のことにてぞ有ん、深谷窮民のさまは、他郡の風俗とは、違へる所多かるべし、