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新編武蔵風土記稿
二十葛飾郡
総説 葛飾郡は、国の東界にあり、和名抄に拠に、此郡元来下総国の管内にて、当国二十一郡の外なり、〈〇中略〉按に、古は下総国との間に入江ありて、埼玉郡の地先までに挿入たり、奈良御門の御時、埼玉の入江などヽ歌にも読し事、万葉集東国歌に見たり、されば今の郡中は、大抵当時の江の中なり、潮水退て後土地の避けしは、延喜以来永和の頃に至まで、五百年ほどの間に、次第に出来しなるべし、按に、和名抄下総国葛飾郡、郷名六郷と、駅家余戸あり、今土地お撿するに、大抵其地と覚しき所、下総国葛飾相馬の二郡に遺て、隻八島豊島の二郷は、其地と覚しき所なし、想ふに此二郷皆島の字お用ひたれば、真間の入江中にありし島などにやありけん、されば其地今は葛西の中に属して、その島嶼の廻りに寄洲の出来しもの、年お経て今の如く広大とはなりしなり、もと下総国葛西郡より避し新田なれば、直に彼郡には属せしなるべし、葛飾、和名抄には加止志加と訓ずれど、これは大宝年来の唱にて、古くはかつしかと号せしと見えて、万葉集の歌には勝鹿など書たれば、今の唱へ、かへりて古に復せしと雲べし、又下総国歌に、爾保抒里能(にほどりの)、可豆思加和世乎(かつしかわせお)、爾倍須登毛(にへすとも)、曾能可奈之伎乎(そのかなしきお)、刀爾多氐米也母(とにたてめやも)と見えたり、仙覚が註に、彼郡中に大河あり、ふといと雲、河の東お葛東郡と雲、河の西お葛西郡と雲と雲り、今按に、ふとい、東鑑に太井と記す、地理お推に、今の利根川なるべし、仙覚は文永頃の人なり、是よりさき建長五年八月晦日、下総国下河辺庄の堤お築固べきの沙汰ありし事、東鑑にもみえたれば、此頃に至て、当郡の地、大に開けしこと知らる、然るに其頃は利根川お界として、今の二郷半領の辺より幸手領まで、総て葛西と号せしと見ゆ、今は小合溜井より南にのみ葛西の名あり、又葛東郡の唱も失ひしなり、古今集羈旅歌の詞書、及伊勢物語等の書に、武蔵と下総との境、隅田川と見え、又金沢称名寺文書の内、文永十二年金沢越後守顕時の譲状に、下総国下河辺庄平野村とのせ、元亨四年、執権高時貞顕二人が下知状に、下総国高野川に橋お架せしこと見ゆ、正慶元年北条貞時の文書に、下総国下河辺庄赤岩郷ともあり、又下総国中山法華経寺永和三年の寄附状、及応永四年足利氏満状、同二十七年千葉兼胤状、同二十九年左衛門尉定忠状に、皆下総国葛西御厨篠崎郷と見ゆ、又相州鶴岡文書、応永二十六年足利持氏の寄附状に、下総国下河辺庄彦名河関と記し、下高野村東大寺宝徳二年の縁起に、下総国葛飾郡来復山東大寺と載せたり、此平野、高野、赤岩、篠崎、彦名の数村、今皆当郡に属する時は、当時の国界推て知るべし、又僧尭恵が北国紀行に、文明十九年二月の初、鳥越の翁艤(ふなよそひ)して隅田川に浮ぶ、東岸は下総、西岸は武蔵野に続けり、此川武総の界にて、利根入間の二川落合所に古渡ありと見ゆ、されど国界の今の如く改まりしは、最近き世のことなれど、其年代に異説多し、或は寛文年中とも、又貞享三年の事なりとも雲、又一説に、今の郡域上古当国に属せしお、中古に至り下総国に隷し、元禄年中武州に復せしといへど、皆無稽の説なり、按に古河公方の家老簗田某政助〈右京亮、後大炊頭と〉〈称す、〉金子左京亮某に与る文書に、禅興寺領武州平沼郷と見ゆ、平沼は今の二郷半領平沼村なり、政助は総州郡山郷水海村三島社の鰐口お寄附せし人にて、銘文に文亀三年大旦那平右京亮正助と彫る、政字正字同訓なれば、傍お省略せしまでなるべし、因て知る、政助は永正大永の頃の人にして、国界の改りしも、其頃より以前なること明けし、されど郡中戸け崎村浅間社、天正十年の鰐口の銘には、下総国戸け崎郷と記たれば、区々に唱へしならん、同十九年金町村香取社領御朱印の文には、武蔵国勝鹿郡葛西金町郷と記され、又御入国之時御知行割〈〇註略〉と題せる絵図にも、当郡お武蔵国に属したれば、当時既に国界変ぜしならん、正保改め国図には、全く今の郡界の如く記せり、当郡は昔将軍頼朝の頃は、其家人葛西三郎清重住して大半領せしと見ゆ、又義経記によれば、千葉介が領地も雑はりしなり、続て親王家将軍の頃には、執権北条氏知行せしこと古文書に見えたり、足利将軍の頃は、関東管領の領国に属し、戦争の時に至ては、小田原北条氏割拠し、其家人も知行せしこと、小田原役帳等に載たり、唯松伏領以北のみ、才に古河公方の領地に属せしとおもはる、公方衰微して、後は全く小田原にて領せしが、天正十八年御打入ありしより御料地となり、其後御家人寺社等へも分ち賜ひしかど、今も郡内過半は御料所なり、総て郡中沼池多く、或は水涯の閑地も少からず、南の端の海涯には、年々に寄洲つきて、地先出張る勢なり、闔郡石高正保の改に十万三千石余、元禄に至ては十一万六千石余、其後も新墾の地避けて、今は若干の石高増加せり、郡域は南より北の方に長し、郡の廻りすべて川流延宣せり、南は海に辺し、東は利根川庄内古川、及江戸川お限て下総国葛飾郡に隣り、北より西に廻ては古利根川、古隅田川浅草川〈隅田川の一名〉等お隔て、埼玉、足立、豊島三郡に隣れり、南涯より北方栗橋に至まで、里数十里余、東西の径は、南辺闊き所にて三里余、中央松伏村の辺にては、才一里に足らず、北に至ては、又広ごりて二里余に至る、〈〇中略〉闔郡打開けたる平坦の地にて、縦横水流通し、水田勝の沃土なれば、他の郡よりも富饒の地なり、殊に郡南葛西の辺は、江戸に近きお以て、五穀の外にも菜蔬お栽て市に粥げり、其利も少なからず、又海浜に至ては、漁猟お余業とせるも多し、されば農民の風俗やヽ浮靡にして総ての事大様江戸の俗に異ならず、又深川本所中之郷、及其辺の村にも、寛文の頃より次第に百姓商家出来て、正徳年中、御府内町並に属せし地も少なからず、