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鎌倉大草紙

尊氏の御時、千葉の家二方にわかれ、宮方、将軍方とてありしが、宮方は九州へ下り、其後終に下総へわたり給はず、関東は一統にてありけるが、今度また馬加は、成氏公と一味して原是お主として、千葉へ移り、千葉の跡お継ける、其後原は小金の城に居住す、上杉より今度胤直と一所に討死ありし、中務入道了心の子息実胤、自胤二人お取立て、下総国市川の城に楯籠て、千葉又二流となる、〈〇中略〉康正二年正月十九日、終に城お攻落し、実胤は武州石浜へ落行、自胤は武州赤塚へ移る、両総州の兵どもは、大半成氏へ降参申ける、〈〇中略〉実胤は千葉城へ入部不協して武州石浜葛西辺お知行して、時お待て居たりしが、世中お述懐して遁世して、濃州に上りて閑居す、其兄の自胤お上杉より取立、実胤の跡お給はり千葉介に任ず、武州の千葉と号す、