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世田谷私記
武蔵国荏原郡菅刈荘世田谷郷は、〈〇註略〉往古吉良家の領地なり、抑吉良と称するは、足利家の嫡流、〈以下世代お記す中略す〉正三位左兵衛佐頼康卿〈亦左兵衛督也と〉号勝光院、〈傍書に永禄四酉年とあり〉其子従四位下左兵衛佐氏朝朝臣、号実相院、〈〇註略〉世田谷お領し給ふ、其比何ほどの貫高にや、今に至てわかり難し、土俗の言伝へたるは、拾八万といへど非なり、〈〇中略〉世田谷頼康卿おも婿とし、弥関東に猛威お振ひけるが、天正十八年七月十八日、遂に豊臣秀吉公の為に被亡、〈〇中略〉東照宮駿遠参甲信の国々お上知し給ひて、北条の領国其儘秀吉公より賜り給ふ、同年八月朔日、江戸の城へ入御、〈是お関東御入国と雲〉此時氏朝朝臣初て東照宮に謁す、同月九日、右御領国御配分之節、世田谷左兵衛佐氏朝朝臣、本州荏原郡世田谷お賜ふと、河肥の記と雲ものに見へたり、〈〇中略〉同二十年二月朔日、吉良家上総国長柄郡寺崎村に於て、千百弐拾五石お給ふ、此時世田谷郷は上知し給ふと見へたり、〈〇中略〉 世田谷は、前にしるすごとく、何ほどの貫高なる所か不知、古城跡あり、今野山なり、村高四百拾六石余也、絃巻村高百三十三石余なり、亦世田谷領と唱へたる所、今郷数五拾七け村あり、〈村名中略〉今高合壱万三千六百三十四石余あり、是は古の城附、村々のみか分りがたし、外に蒔田郷も領し給ふ、しかれば何程の領地成や、