[p.0917]
新編武蔵風土記稿
一総国図説
正保改定国高九十八万二千三百二十七石九斗六升五合八勺、此後玉川次左衛門某、野村次郎右衛門某等、武蔵野開墾の功お起し、寛文九年閏十月二十七日撿地し畢、南原野廻北原地蔵野、小川新田、砂川新田、下石原新田、松野五箇所、都て高拾八万石許、一所にて広なるもの一区、地蔵野分一区、其余は飛地にて所々に区別せり、故に元禄の改に至ては、高百十六万七千八百六十二石九斗八升三合三勺九才に至る、其相距ること六十年にして、貢数の増加すること十八万五千石余、其後享保十三年、井沢弥㧾兵衛為永命お蒙り、足立郡中見沼、鴻沼などいへる大沼お埋みて水田とし、後又元文二年、堀江荒四郎芳極、荒川涯の閑地お新墾して高入となりしかば、元禄の度改定の高に増加すること、又万石余に及べり、況今元文お距こと九十余年、貢穀の増入すること知べし、