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江戸は武蔵国の一部にして、其地名は鎌倉幕府時代より既に史乗に見えたり、蓋し其名の漸く世に知られしは、康正年間、太田資持の居城お此地に築きし時に在りとす、然れども当時は疆域未だ広からず、人衆甚だ密ならず、蕭条たる一漁村に過きざりしが、天正年中、徳川氏封お此に移しヽより、疆或日に広まり、戸口月に加はり、未だ数年ならずして、一大都会と成れり、既にして、徳川氏天下の政権お握るに及び、江戸の地は、四方輻湊の中心となりて、益繁栄お加へ、丘陵は夷げられ、海湾は塡められ、万戸忽にして田野お覆ひ、千帆常に河海に満つるお看る、故に夙に山城の京都と、東西相対峙して、私に江都若しくは東都と号せり、 明治元年、王政復古し、竜駕東幸するや、援に江戸お以て、帝都と為し、詔して曰く、江戸は東国第一の大鎮、四方輻湊の地、宜しく親臨して其政お視るべしと、乃ち江戸お改めて東京と称す、実に皇国の首府にして、今の東京市即ち是なり、