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南向茶話
或日、例のごとく二三の友参りつどひ、古今の談に、或人問て曰、抑当御地お江戸と号し候事、何れお指して申候哉、 答曰、仰のごとく、近代当所名跡等お記し候書も数多相見へ候得共、江戸の号の事慥ならず候、愚〈〇酒井忠昌〉が管見仕候に、山中氏被相記候中古治乱記十五巻、江戸城草創之条下、其略に、扇谷上杉修理大夫定政之老臣お、太田備中守資清入道道真と雲、武州都筑郡太田郷之地頭也、其嫡男鶴千代丸と雲、成長之後、太田源六資持と号す、後に受領して任備中守、改資長、剃髪して道灌と称す、当御城お康正二年に普請、初め縄張して、長禄元年四月迄僅両年之内、巧匠の功成就しける、都五山之都万里和尚、古詩お引て是地お美たる詩に雲、窓含西嶺千秋雪、門繁東呉万里船、又五山より被贈たる詩之内に、江戸城高不可攀、我公豪気早東関、三州富士天辺雪、快作青油幕下山と雲々、右之詩の句にも江戸城と有之、別号なし、しかれば道灌城築の時に、其地名に依つて直に名付たるべし、既に鎌倉将軍の時代より江戸といふ称号の士あり、此は平氏類葉よりして、武蔵の士と称すれば、江と雲地名其前有べし、愚案に、江に望める意成べし、抑当御城天正年中御入国以前、今の雉子橋の外より北の方大沼にて、此より西の方もちの木坂下迄入江にて有し由、小川町も寛永年中、外廓無之以前は、牛込よりの流は、どんど橋の向へ直ぐにもちの木の方へ流れ行、又小石川の流は、今の土手三崎稲荷の辺より、一つ橋の御堀の川江流行しよしなり、然ば、唯今御城内、古へより江戸と名付所なるべし、総名となり候事は、其頃近辺の根城たるによりて也、