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御府内備考

江戸総説 江戸は上古武蔵野の内なりしよしは、諸記紀行の類にも載たり、後年墾避して郡郷お定られし後も、江戸といふ名は猶聞えざりしなり、中古は郷名に唱へり、相州鎌倉円覚寺所蔵文書の内、建武四年〈延元二年なり、関東此号お用ひずといふ、〉七月十日、左馬頭某〈花押及年歴お推に、尊氏の弟直義なり、〉が寄附状に、当寺領〈中略〉武蔵国江戸郷内前島と記し、永和三年十二月十一日同寺の下文に、武蔵国江戸郷内前島村と記し、応永二十六年十二月十七日の寄進状に、武蔵国江戸前島内森木村と載たり、此前島森木などいふ地は、いづれの処なりしにや、後世聞えざる地名なり、今姑く前島といふに因て推考るに、恐くは今の芝辺より御城までの内なるべし、是後年村落お廃して、屋舗地寺社地及町並となりし処なれば、おのづから古名お失ひしならん、其余豊島荏原二郡の内に、前島森木などいふ名は、小名字にも伝ふるおいまだ聞ず、元より此文書に記せし郷といふもの、上古朝庭より定められたる郷とは異るべけれど、現に江戸郷内前島村と書る時は、後世〈天文永禄頃の文書おいふ〉村お某郷と書しとは、又おのづから別なるべし、新井白石の輩、江戸お庄名ならんといひしは、是等の文書あることお知らざる管見の億説といふべし、按に武蔵国七党系図に、秩父太郎大夫重弘が五男お江戸太郎重継といふ、この重継が時はじめて江戸の地におり、江戸おもつて称とせしなり、是より前江戸の名諸記にあらはるヽおいまだ見ず、