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江戸名所図会

江戸 豊島郡峡田領とす、其封境往古は広くあらざるに似たり、〈〇註略〉武蔵国風土記に、荏土に作る、伝雲、此地は大江に臨故に江戸と称せりといふ、〈甲陽軍艦に、江戸の辺りお中武蔵と唱ふるとあり、義経記に雲く、江戸太郎重長は八箇国の大福長者とあり、しかる時は、江戸の地は其頃なべて重長領せしなるべし、南向亭いふ、平川一水お隔て、今の三の丸の地は江戸の郷、日輪寺の方は神田郷なりと、こゝに平川と雲は、今の飯田町の下よりつゞく入堀の水脈是なりと、又同じ説に、今の御城の辺り、いにしへ江戸ととなへし地なるべし、摂州大坂御城内の雁水坂、旧名お大坂と号く、後世御城の号に呼れしより、彼地の総名となる、江戸の名も此類なるべしと雲雲、寛永二十年開板のあづまめぐりといふ冊子に、行へいかにと白露の、葉末にむすぶ浅草お、打越ゆけばほどもなく、むさしの江戸につきにけりとあるも、上の意にひとし、よつていにしへの封域、今の如くに広大ならざるおしるべし、〉天正已降、江戸お以て御居城の地となし給ふ、故に日お重ね月お追ひ、益繁昌におよび、今は経緯拾里におよむで、都て江戸と称せり、万国列侯の藩邸、市鄽商売の家屋鱗差して、縦横四衢に充満し万戸千門甍お連ねたり、実に海陸の大都会にして、扶桑第一の名境といひつべし、