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江戸紀聞

江戸大意 按に、武蔵七党系図に、秩父太郎大夫重弘が五男江戸太郎重継と雲、この重継が時、はじめて、江戸の名諸記にあらはるヽおいまだ見ず、重継が子お江戸太郎重長と雲、砂石集に雲、〈〇全文在前故略〉この壱岐前司と雲は、則葛西壱岐守清重がことなるべし、清重は豊島権守清光が二男也、江戸は則太郎重継がことなるべし、江戸系図によるに、豊島江戸は、秩父六郎将恒が子より別れて、同じ流の家なれば、かくしたしき者とはいへるなり、東鑑に雲、治承四年九月二十八日丁丑、遣御使被召江戸太郎重長、依景親之催、〈按に、景親は大庭三郎なり、〉逐石橋合戦、雖有其謂、守令旨可奉相従、重能有重折節在京、於武蔵国当時女已為棟梁、専被恃思食之上者、催其便宜勇士等、可予参之由雲々、又雲、十月五日甲申、武蔵国諸雑事等、仰在庁官人并諸郡司等、可令致沙汰之間、所被付江戸太郎重長也雲々、是らによれば、重継重長江戸の地お一円に沙汰せしこと見るべし、その後上杉家武蔵国お領せしかば、かの家人等が所領江戸の地にあまたありしと見ゆ、長禄文明のころは、太田入道道灌江戸の城にありて、この所お指揮せり、道灌卒してのち、北条氏当国の半お領せし時、江戸の地は又かの家人等が領知となれり、されどむかしより江戸と称する所、何の地までおさして雲しや詳なるおしらず北条家の分限帳お見るに、荏原郡六郷大森の辺、多磨郡泉村のあたり、豊島郡練馬村、赤塚村、志村、岩淵村、十条村、尾久村、石浜村、石原村、牛島おかけて、皆江戸のうちとせりし、永禄のころかくいへば、ふるき世もおほやうおしてしるべし、御当代となりては、相伝ふ日本橋より四里四方おさして江戸とすと、その定められし年歴おつまびらかにせず、