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沙石集
六下
芳心有人事 故葛西壱岐前司といひしは、秩父のすえにて、弓箭の道えたりし人也、輪田の左衛門世おみだりし時、葛西の兵衛といひて、あら手にて鬼こヽめのやうなりし輪田が一門おかけちらしたりし武士也、心もたけく、なさけも有ける人也、故鎌倉の右大将家の御時、武蔵の江戸子細ありて、彼江戸おめして葛西にたびけるお、葛西の兵衛申けるは、御恩お蒙り候は、親き者共おもかへりみむためなり、身一つはとてもかくも候ぬべし、【江所(えと)】はしたしく候、僻事候はヾ、めして他人にこそたび候はめと申に、いかで給らざるべき、もし給はらずば、女が所領も召取るべしと、しかり給けれども、御勘当蒙るほどのことは、運のきはまりにてこそ候はめ、力らおよばず、さればとて給はるまじきき所領おば、争か給べきと申しければ、江所もえとり給はず、