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落穂集追加

江戸町方普請の事 一問曰、関東御入国後、町方の普請之義、何れの所より始て被仰付るヽや、答曰、右長崎小木曾抔常に申は、隻今の日本橋筋より、三河町川岸通りの竪堀の堀るヽが初めにて、夫より段々と竪堀横堀共に出来、其上げ土おば堀ばたに山の如く積上けるお、諸国より参る人ごとに願ひ出し、町屋お割被下候に付、勝手次第に右の上げ土お引取り、地形お築立、屋敷取りおいたし、表通りには先葭垣などおいたし置、追て家作お仕り引移と有之、初ての程は町家願の者も多無之所に、勢州の者共あまた来り、屋敷望仕る由沙汰有之、其町屋敷出来候以後、表に掛たるのうれんお見候得ば、一町の内に半分は伊勢屋と申書付見へしと也、但の〈〇但の有誤脱〉方などは地形卑く、御城内へもへだヽり候お以、繁昌いたし兼しと有之義、御上へも相達し、遊女町お御免遊ばし、葭原の場所お拝領仰付るヽ故、四方に堀お堀て地形おつき立、家作お調へ、遊女共あまた集め置お以、昼の間は諸人参り候得共、其道筋左右共に葭原の中にてぶつそうに有之候に付、暮るれば人通り無之故、渡世致難き旨願上ければ、女歌舞妓お御免被遊被下候様にとの願之通御免に付、町中に舞台お建、桟鋪お掛け、芝居お初め候に付、其比京大坂にも無之見物事と申て、貴賤共に入込、殊之外繁昌いたし、細道の左右にある茨原も切り払、江戸中より出店おいたし、茶屋抔も多立並しと也、〈〇中略〉 鳶沢町の事 一問曰、御入国の砌は町方盗賊共多入込、殊之外難義いたす処に、御仕置お以、件の盗賊共追散申候と有之は実や、答曰、其義お我等〈〇大導寺友山〉若年の頃承り及は、其元御申の通り、盗賊共諸方より入集り、以の外ぶつそうに有之由、権現様聞召され、何卒致し盗賊の張本たる者一人召捕へさせる様にと、奉行中へ被仰付候所、其頃関東に名お得たるすり大将、鳶沢と申者お搦取、牢舎お被申付候と有るお申上れば、其盗賊お召出し御仕置きなるべく所、一命お御助け被成候間其働お以、他方の盗賊お御当地へ入り込申間敷由にと、被申付候様にと被仰出に付、奉行中より右之通り御申渡し候得ば、鳶沢承り、命お御助け被遊るヽ段、ありがたく奉存候得共他方より入込のあまたの盗賊共お、私一人の力にて防ぎ候と有之義はなり難く候へば、何方に於てなりとも、屋鋪地お被下置候はヾ、私手下の者共お呼集め差置、其者共の盗お相止、吟味為致度奉存候、右手下の者盗お相止候ては、渡世の仕方無之候間、御当地にて武家町屋お不限、外の者共の古手お買候義御停止に被仰付、私義お古手買の元締役に被仰付被下候様にと申に付願之通とて、遊女町の近所に於て、一け所四方の茨原お屋鋪に被下候に付、夫より切りひらき、鳶沢町と名付、町屋に取立、〈〇中略〉盗賊の沙汰も無之に付、古著買之義も相止、鳶沢町の義も、今程は富沢町と文字おかへ、葭原町の義も何れの頃より、吉原町と文字相改申候也と也、