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白石紳書

一丙申の冬、雀部六太夫入道重羽のものがたりに、我父など駿河より此所へ引移りし比に、今の駿河台の辺ひらけたり、〈此事金地院日記にも見ゆ〉駿河衆の屋敷被下候故に、駿河台といふ也、其此には江戸川といひて、今に竜慶橋の筋の川南へ流れて、平川に落合たり、今水戸殿の前の土堤の少しひきく見ゆる所、即其川筋也、それお埋みしかど、後に又落入たれば、又築しかど地落入て少しひきヽ也、さてその流の平川に落入らむとする筋は、唯今の内藤駿河などの屋敷也、それ故に内藤やしきに今も池ありといふ、これ其時の川筋の水の残り也、此所に鶴の下りしお聞召し、台徳院殿〈〇徳川秀忠〉御あわせあるべしとて、御出の時に、御番衆の二三人見んとて、御番所より私に御尋につきて来りしお、土井大炊頭の見付て、皆は当番にてはなきかと問ふ、いかにもと答へしかば、御番所お仰もなくてうちあけて参りては、必ず御しかりに逢ふべし、我あとより参れ、よきにすべきといふほどに、しりにつきて来るに、鶴とらせられて御気色よかりし時に、わかきものども、御鷹の鶴とり候事おついに見ぬとて、御あとにつきて参りて候と申されしかば、御覧じて誠に彼等はいまだ見し事はあらじと、御わらひなされたりといふ、今の猿楽町といふには、観世太夫が屋敷ありて、座のもの少々居たりき、さてかの駿河衆引うつるに至て、今のごとくに水戸殿の前の堀お浅草へほりつヾけて、其土お以て土堤おつかれて、内外の隔出来て、こなたお駿河台と名付たり、其後に又陸奥守へ被仰付て、いよ〳〵其堀お深くせられし也、観世やしきも他所へ引うつされて、その跡にやしきわり渡して、猿楽町の名残れりといふ、某問ふ、さては今の牛込御門の前の塀も、其時に出来しやと問ふに、牛込前の堀の事、いまだしらず、竜慶橋筋の水お江戸川といひしは、平川へ落合ふおふさぎて、浅草川へ落す事は、前にいふがごとく承りたりといふ也、 按ずるに、ふるき人のいひしは、〈長野治右衛門のいひし也〉芝口の町も京橋辺迄にて、それよりこなたは後に出来し也、これによりて京橋辺の町の名に、今も大坂町住吉町などいふあり、これはその所に傾城町有し也、中頃に今の境町へそれおうつされ、丁酉〈〇明暦三年〉火事後、又今の新吉原へうつされたり、されば京橋辺よりして、日比谷門の辺迄は、海入込たり、これによりて今の芝口の辺、井上玄徹やしき前むかしの肴市場故に、今も市たつなり、又今の日比谷門のあたりも、町屋なるお、後に武士やしきになされし故に、町は引移されて、日比谷といふ町有、今の門よりは大きに程へだヽりたり、今の日比谷のあたりお、陸奥守の地お築たてしといふは、その海辺お築たてし也といふ、又伊賀衆より出し書付お見るに、寛永の初迄は、赤坂の辺糀町辺は、伊賀衆の知行所の田地なるお他所へ引うつされ、ため池おほられて、其土おば今の安芸守の屋敷などの台となり、それより堀おほり廻されしといふ也、さらば牛込などおつヾけられしも、其時に出来しなるべし、浅草橋御門は、越前の宰相殿の御承りなりきと、越前衆のいふ也、これは今の松平中務の屋敷は、もと上総介殿の御やしきお、後に越前の下やしきに被下候故、屋敷近くの故なるべし又重羽いふ、今の霊巌島は、母方の祖母の旦那の霊岩寺の雄誉の望給ふて、島おつきだせしといふ、按ずるに、此霊岩島は、右にしるす京橋よりこなたの地おつかれて後には、町堀の地お築出し、その後の事にや又それよりさきの事にや、詳ならず、又按ずるに、糀町は江戸御打入りの時にひらかれしとて、山王祭にも第一に十二町の笠鉾おわたす也、又赤坂にも伝馬町有、是おおもふに、最初江戸の町は、上方よりしては、京橋の辺よりあなたにて、赤坂へかヽりて城下へ入りしが、御入国後に、糀町ひらかれしなるべし、其時にて、京橋筋よりは、今の西北下お往来の道とし、大手の前より本町へ通りしなるべし、奥のかたへの町の終りは、今の神田の旅籠町これ也とこれも長野のいひし也、今の常盤橋お大橋と名付しといへば、これはむかしよりありし也、平川より海へ落入る水かけし橋と見へし、其後に京橋より本町筋迄の町出来るに至て、川筋おほりひらけて、日本ばし、江戸橋といふも出来しなるべし、これらは慶長五年、関東事終りし後の事なるべし、それより前の事は、右のごとくと見へたり、大猶院様〈〇徳川家光〉御代迄、西丸御普請といひしは、今の西丸の大手の廓と、又は西丸下の外桜田門より和田倉迄の廓など築れし事なるべし、 重羽又雲、其後小日向の辺ひらかれし時は、我等が父の奉行お承りたり、此辺に町家なくしてはいかヾと申上ければ、町おもわり渡し候へとの事也、其時は奉行の心々なれば、今の室新助の父の医師なるに、屋敷一つ割あたへし事などあり、むかしは如斯なりしといふ、