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江戸紀聞

江戸総説 江戸の大都会なる、古へ京坂の盛んなりしといへども、比すべくもあらじ、それもわづかに二百年来の事にして、天正十八年の前は、北条家の家人等が居宅ありしのみにて、余は多く田野の地なりしと見ゆ、神祖江戸の城にうつり給ひしより、三河遠江等の御家人等つどひ集りしかば、城下にして、こと〴〵く邸宅の地お給へる、もとより当国の住人もありしなるべし、其後元和二年、駿河の御家人ら此地にうつるべし、さもあらんには、居宅の地せまかるべしとて、江戸川お〈今の小石〉〈川御門のうちに有しなり〉東北の方へ堀まはし、その中お広くし、屋舗の割お命ぜらるべきよし、初は吉祥寺の後より本郷の台おほり通すべきむね評議ありしが、後におもむきかはりて、吉祥寺の前お堀わり、田安御門の北東の方に引ならし、神田神社、其外万随寺等お外へうつせり、明神は神田のだい、万随寺は下谷と定られ、本明寺其外は小石川などへうつし、かの御堀の土おもて築き立、屋敷がまへなりしと雲、この頃御曲輪内の大名旗本の屋舗は、ほヾ定りしなるべし、又商家などもいにしへよりありて、ことに今の日本橋のあたりは、諸国のあき人等つどふ所にて賑ひしと見へたり、蕭庵の静勝軒の詩の序に雲、城之東畔有河、其流曲折而南入海、商旅大小之風帆、漁猟来去之夜篝、隠見出没於竹樹烟雲之際、到高橋下繫纜閣櫂、鱗集蛾合日々成市、則房之米、常之茶、信之銅、越之竹箭、相之旗旄騎卒、泉之珠犀異香、至塩魚漆枲巵筋膠薬餌之衆、無不彙聚区別者、人所頼也と、又万里和尚の詩の序に雲、宜哉、公以静勝称軒矣、倉廩紅陳之富、裁栗而雑皂莢、市鄽交易之楽、〈城門前設市場〉担薪而換柳絮、僉曰一都会也、これ長禄文明の頃にして、太田道灌江戸の城にありし時なり、此頃商家もありしとみゆれど、今とはさまことなりしなるべし、或書に雲、江戸町屋のはじまりは、今の日本橋よりも道三河岸の竪堀おほられしお初にて、それより次第に竪堀横堀などいでき、其揚たる土お堀の端に山のごとく積あげてありしお、諸国より集りし町人こひ奉りしかば、町家にわりて給はりしにより、おのがまヽに揚土お引とり、地面お築き、かまひお定め、表の方へは、松葭などもて垣とし、其後次第に家居おたてヽ引うつりしが、初の内は町家お願ひしものも少なかりしに、伊勢国よりあまた来りてこひしかば、ほどなく町屋多く出来て、一町のうちなかばヽ伊勢屋おもて称とせしと、按に、かく町屋の建し年歴お詳にせず、されども慶長十四年正月四日、江戸本町五町ほど、又石川玄蕃頭屋舗も焼失せしと慶長記にのす、是によれば、本町などは初載る所より前に立しと見ゆ、或書に、日本橋より道三河岸の堀おほりしと雲、慶長十六年より後の事なるべし、慶長記に雲、十六年十二月七日、安藤対馬守に命ぜられ、来年江戸船入おほらしめ、運送の船つきの通路の自在なるべきやうに、中国九州の諸大名におほせて、人夫お出さしむべきよし仰あり、明る十七年二月十五日、今日安藤対馬守御使として駿府に至り、江戸御普請船入の絵図お奉り、仰おうかヾふと雲々、同き年六月二日、江戸新開の地町割の事なるべしと、後藤庄三郎光次に命ぜられ、京師堺津の商人お呼下し、屋舗お給ひしと雲、是より後諸国の商人どもあつまりて、比屋町屋となりしなるべし、されどいく程なく、同き十九年二月二十一日、江戸町中大火ありしよし同記にのすれば、この時多くは烏有となりしと見ゆ、寛永五年、御城外北輪の石壁お築くべきよし命ぜられ、明年の春より諸大名その事おつとむ、〈寛永十三年、江戸御城外の総石垣、見付升形、その外総堀の普請お諸大名に命ぜらるヽと雲、是は五年のことヽは、おのづから別なりや、詳にせず、〉この時外曲輪の御門に全くなりしなり、すべて外曲輪内お府内とし、外お府外といへり、又この頃江戸辻々にて、ゆきヽのものお故なく害することあり、此年の春より、江戸中辻々に番所といへるものお建て守らしめしかば、後みだりに人お害するものなしと、同十二年、又命ぜられて、江戸中大名旗下の小路ごとに辻番おおかれ、其外町中端々には、巷門お建しめしらる、援にして御家人の居宅、商家の家居などもほヾ定りしとみゆ、其後明暦の変にかヽりて、江戸の地三分の二は一変せしとみゆ、〈〇下略〉