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御府内備考
八十八芝
芝は芝浦などヽ呼びて、古き世よりの名なり、古へ此辺みな海辺なる事しるべし、山岡明阿雲、むかし此辺芝生にて、武蔵野の末なりしゆへ、芝といへるなるべしと、一説〈南向茶話〉に、此地の古老雲、すべて此海辺お芝浦と雲は、海岸近き所に木の小枝お並べ置て、海苔おとれり、木の小枝お俗に芝と雲ゆへに、総名お芝浦とよび来れりと雲は誤れり、近き世にこそ海苔おも取しなるべけれど、地名のこれより起りしとするは無稽の説なり、按に本芝二丁目名主内田源五郎所蔵古文書の内、天正十五年、小田原北条家より出せし文書に、蒔田御領分、芝村舟持中と記たれば、此頃は村名に唱へしと見ゆ、又天文廿二年、永禄七年、同じ北条家より出せし文書に、柴舟持中と記し、及永禄三年、柴代官百姓へ渡せし浦賀番船の文書、又江戸刑部小輔充の文書に、柴船六艘従前に出来儀候、船橋舟何時も動之刻、触次第無遅々様専一候などもみへたれば、古くより船持多く住せし処なる事知るべし、されど此比芝といへるは、金杉本芝辺のみとおもわれたり、今の芝口町は始日比谷の代地に賜はりて、日比谷町と称せしお、寛永年中、芝口御門お建させられし比より、芝口町と改名せらるヽよしなれば、それより前は何れに属せし地なる事お知べからず、神明町の辺は飯倉に属せしにや、飯倉神明なども称せり、今は芝口町以南、上高輪町、〈芝田町、芝車町、〉〈芝二本榎、芝伊皿子町と分て唱ふ、〉車町までおおしなべて芝といひ、又増上寺の表門芝に出たれば、芝の増上寺と称するより、切通し土器町辺までも芝と唱ふれど、是は全く増上寺の地名よりおしうつりしに過べからず、其質は飯倉もしくは桜田に属せし地なるべし、