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御府内備考
七十五麻布江戸志雲、此所は多摩川へもほど遠からざれば、古へこの地に麻お多くうへおき、布おもおり出せるよりの名ならん、多摩郡にも布多村といふあり、手調布お多くおり出せしよし、又或人雲、あさふは麻布にはあらず、此辺昔は山畠にて麻お作りしゆへ、麻田おあさふとよめり、日本紀にも、豆田粟田おまめふあはふと訓ずるがごとく、此外にも蓬生又浅茅生の類に同じ、武蔵国には調布お玉川にさらして、貢物にも奉りしゆへ、此辺麻田なるべし、延喜式万葉集の歌にものする所なりと、是等の説皆文字にもとづきての牽強にして、その拠おしらず、又麻生山善福寺の伝へに、かの山へ往昔麻のふりし事あるゆへ、麻布留山といひしお、中略して麻布山と唱へしより、後年広き地名となれるなどもいへり、これは殊に甚しき附会の説なり、〈〇中略〉江戸古図には、麻生村おのす、又北条分限帳にも、江戸廻り阿佐布五十三貫二百文の地、狩野大膳亮領せしよしみゆと、今案に、正保頃の郷帳に阿佐布村高七百四拾五石余内四百二十八石余、伊奈半十郎御代官所、百三十七石余、山王領六十六石余、大養寺領五十八石余、天徳寺領三十八石余、神田明神領十六石余、柴明神〈神明の誤なるべし〉領屋敷四町五反八畝拾五歩、上ヶ屋敷伊奈半十郎御代官所、外高拾石善福寺領と載せ、元禄改の郷帳には、高二百九十六石余阿佐布町、高拾壱石余阿佐布町の枝郷坂下町と出せり、正保の頃七百四十五石余なりしお、元禄改に二百九十六石余と有しは、此際拝領屋敷寺地など多く置れしゆへなるべし、今麻布の在町お合せて、その地域おいはヾ、東南は大抵麻布新堀川に限りて三田に対し、〈川向に麻布の飛地少しく在り、川の手前に三田の飛地少しくあり、こは新川成し時、村界に拘らずして堀割ありし故なり、〉北は飯倉赤坂に続き、西者澀谷青山に境へり、